酋長シアトルの美しいメッセージ

 三上さんが「すべては結ばれている」(2008年8月27日)ル・クレジオを引用している。そこで紹介されているル・クレジオ「歌の祭り」(菅啓次郎訳・岩波書店)を読んでみた。それは読むのが辛い本だった。

「1951年、8月の13日、聖イポリットの日、晩課の時刻」アステカの最後の皇帝クアウテモクが、征服者エルナン・コルテスの兵士たちによって捕えられる。古の都メシコ=テノイチティトランはスペイン人の手に落ちたのだ。六カ月に及ぶ恐ろしい包囲の後のこの伝説的な首都の陥落は、悲劇の結末ではない。それどころか、それはやがてアメリカ先住民文化のほとんど全面的な壊滅、その政治的・法的な独立の喪失、その芸術の破壊、その宗教・哲学・道徳の無化へとゆきつくことになる、一連の戦いや試練のはじまりにすぎなかった。それが、世界の他の地域にはチアパスの司教バルトロメ・デ・ラス・カサスが与えた呼び名「インディアスの破壊の暗黒伝説」として知られてゆく、さびしい歴史だ。

 アメリカ先住民の文化は徹底的に破壊されてゆく。人口も激減する。読んでいて胸が悪くなる。ただ本書の最後に優れたメッセージが紹介されている。

 1855年、諸部族連合会議において、先住民の土地を買い上げようというアメリカ政府の申し出に対する回答として酋長シアトルは、人類に遺されたもっとも美しいメッセージのひとつを述べている。それは世界のすべての学校で教えられるにふさわしいものだ。

 それが次の文章だ。長いが読んでほしい。

 われわれは、われわれの土地を買おうというあなた方の申し出を検討しよう。それを受け入れると決意するにしても、ひとつ条件がある。白人たちは、この大地に住む動物たちを、みずからの兄弟として扱わなくてはならない。
 私は野蛮人であり、他の慣習など知らない。私は千頭ものバッファローが草原で朽ちていくのを見てきた。走る列車から撃った白人たちに、そのまま捨てられたものだ。私は煙を吐きながら走る鉄の馬がバッファロー以上に重要だなどということは、理解できない野蛮人なのだ。われわれは、ただ生きるためにしかバッファローを殺さない。
 動物たちなくして、人間とは何なのか。すべての動物たちが消えてしまうなら、人間は心に非常なさびしさを感じ、それで死んでしまうだろう。なぜなら動物たちに起こることは、やがては人間にも起こるのだから。すべては結ばれているのだ。
 あなた方は子供たちに対して、足の下の地面はわれわれの先祖の灰でできているのだということを教えなくてはならない。子供たちが大地を敬うように、それはわれわれの人々の生命により豊かになっているのだと教えてやりなさい。われわれがわれわれの子供たちに教えていることを、あなた方の子供にも教えなさい。大地こそ母なのだ、と。大地に対して起こるすべてのことは、大地の子たちにも起こる。人間が大地にむかって唾を吐くとき、人間は自分自身にむかって唾を吐いているのだ。
 われわれは知っている。大地が人間のものなのではなく、人間こそ大地のものなのだ。われわれは知っている。血がひとつの家族を結びつけているように、すべては結ばれているのだと。すべての物事は結ばれている。
 大地に起こることは大地の子らにも起こる。生命の布を織ったのは人間ではなく、人間こそ布の一本の糸でしかない。布に対して人間が行うことは、自分自身に返ってくる。
 だがわれわれは、私の人々に対してあなた方が指定した居住区へと行けという、あなた方の申し出を考えてみよう。われわれは離れた土地で平和に暮らすだろう。われわれの日々の残りをどこで過ごそうが、どうでもいい。われわれの子供たちは、父親たちが敗北し屈辱を味わうのを見てきた。われわれ戦士たちは恥を知ってきた。敗北のあと、かれらはのらくらと日々を暮らし、体を甘い食物と強い飲物で汚している。われわれが日々の残りをどこで過ごそうがどうでもいい。もはや数も多くない。さらにわずかな時がたちいくつかの冬が過ぎれば、かつてこの土地に住んだ、あるいはいまも小さな集団となって森をさまよっている偉大な部族の子らは、誰も残らないだろう。かつてはあなた方とおなじほど強くおなじほど希望にあふれていた人々の墓に泣くものは、誰も残らないだろう。だが、私の人々の終わりのためになぜ泣かなくてはならないのだろうか。部族とは人間でできている、それだけのものだ。人間はやってきては去ってゆく、海の波のように。
 神が彼とともに歩き友人のように話しかける白人にしたところで、この共通の運命をまぬかれることはできない。おそらく、何があろうと、われわれは結局は兄弟なのだろう。いずれわかる。だがわれわれは、白人がおそらくいつか発見するだろうことを、ひとつ知っている。われわれの神は同じ神なのだ。あなた方は、われわれの土地を所有したいと思うのと同じように今日、神を所有していると考えているが、むだなことだ、そんなことはできない。神はすべての人間の神なのであり、その憐れみは赤い人間に対しても白い人間に対しても同じようにむけられる。
 大地は神の目には貴重なものであり、大地を傷つけるものはその創造者を軽蔑していることになる。白人もまたいずれは終わってゆく。それもおそらくは他の部族よりも先に。みずからの寝床を汚しつづけるがいい、するとある晩、自分自身のゴミ屑の中で窒息することになる。
 けれどもその敗北の中で、あなた方は神の力によってともされた眩い光に輝くことだろう。あなた方をこの国へといざない、みずからの意図にしたがってこの大地と赤い人間を支配する権力をあなた方に与えた神の。この運命はわれわれにとっては謎だ。われわれには理解できない。すべてのバッファローが虐殺され、野生馬が飼い馴らされ、森のひそかな片隅すら人間の匂いでむせかえり、熟れて収穫を待つ丘の姿が話をする電線で台無しにされているとき。
 藪はどこに行った? 消えてしまった。鷲はどこに行った? もはやいない。敏捷な仔馬や狩猟に別れを告げるとはどういうことか? それは生活をやめ、なんとか生き延びるので精一杯になることだ。
 こういうわけで、われわれは、われわれの土地を買おうというあなた方の申し出を考えてみるのだ。それを受けいれるとして、それはあなた方が約束した居住区をたしかに受けとるためだ。そこでならおそらくわれわれに残された短い日々を、われわれの欲望にしたがって生きて終えることができるだろう。そしていつか、最後の赤い人がこの大地から姿を消し、彼の思い出が大草原の上をすべる雲の影でしかなくなったときにも、これらの川岸やこれらの森は、私の人々の魂をかくまってくれることだろう。かれらは生まれたばかりの赤ん坊が母親の心臓の鼓動を愛するように、この大地を愛しているのだから。だからわれわれがわれわれの土地をあなた方に売るとしたら、われわれがいつも愛してきたように土地を愛してください。われわれが世話をしてきたように土地の世話をしてください。
 あなた方が手に入れた時のままの姿で、この国を記憶にとどめてほしい。そして全力で、すべての思考を使って、すべての思いをこめて、土地をあなた方の子らのために維持し、神があなた方全員を愛するように土地を愛してほしい。
 われわれは、このことだけは知っている。われわれとあなた方の神はおなじ神なのだ。神はこの大地を愛している。白い人も、人間に共通の運命をまぬかれることはできない。おそらくわれわれは兄弟なのだ。いまにわかる。