小島政二郎「小説 永井荷風」を読む

 小島政二郎「小説 永井荷風」(鳥影社)は2007年8月に初版が発行された。著者による「あとがき」の日付は昭和47年10月となっている。どうしたことか? 実は永井家の出版許可が下りなかったのだという。読んでみればなぜ許可されなかったよく分かる。
 小島は荷風に教わりたくて慶應義塾へ入学するが、荷風が退職してしまい教わることができなかった。しかし小島は終始荷風を尊敬している。ただ無批判に尊敬したのではなく、欠点は歯に衣を着せることなく指摘していて、それが遺族の反発を受けたのもよく分かるのだ。
 荷風は25歳のときアメリカへ渡り、5年間滞在してその後数ヶ月フランスで過ごしてから帰国する。荷風は英語やフランス語でモーパッサンやゾラ、ドーデー、フローベル、トルストイツルゲーネフなどを読む。またワグナーの楽劇を楽しんでいる。
 29歳で帰国して「あめりか物語」を発表して文壇から絶賛される。慶應義塾の教授としても迎えられ、「三田文学」を発行して編集長になる。しかし「三田文学」の売れ行きは悪く、永井の作品も江戸趣味に向かってつまらなくなってくる。

 そういう生活(いわゆる江戸趣味をよしとする)が、彼の芸術に影響をしずにはいなかった。浮世絵の美を論じた「浮世絵の鑑賞」や、ゴンクールの「北斎」や「歌麿」の翻訳や、江戸の狂歌を最大級に褒めたり、だんだん文学とは無縁のものとなって行った。「モーパッサンの石像を拝す」を執筆した頃の荷風はどこへ行ってしまったのだろう。

 荷風の私生活も荒れていた。

 昼はフランス文学や、支那の文学、詩を愛読しているかと思うと、夜は毎晩のように新規な女漁りをして倦むところを知らなかった。(中略)
「去年12月の初め、蛎殻町小待合近藤の帳場にて初めて逢いしなり。年二十五六。閨中秘戯絶妙」これは黒沢きみという女についての記述である。

 ある時は女二人と、ある時は女とその情夫との3Pまでしている。覗きも趣味だった。限りなく好色で変態というべきだろう。

 彼は自然主義の作家と言われるモーパッサンによって開眼して帰って来た。しかし、彼は自然主義の作家ではなかった。人間性を徹底的に追及する作家ではなかった。「日記」によると、彼は一生数え切れないほど女を漁った。しかし、どの女の性格をも追求していない。彼の小説を読んで、性格が彷彿として記憶から消え去らない女は一人もいない。彼は、
「鴎外先生が道楽をしていたら、もっといゝ作品を残したろう」
 と言っているが、「ヴィタ・セクスアリス」に書かれたくらいしか女を知らない鴎外の方が、無数に女を食べた荷風よりも、数多くの女の性格を描き分けている。忘れられない女の性格を幾人か私達の目の前に呼吸させている。
 荷風は人生を「物語」にする作家であった。男にも、女にも、人間的に、性格的に肉薄しようとする興味はなかった。しかし、風俗や、小説が展開する場所、風景には、異常な興味と執念とを持っていた。「すみだ川」の人物は一人も生きていない。しかし、隅田川沿岸の風景描写は、小説に不必要なくらい詳細に生き生きと活写されている。

 小島は最後に荷風の作品のうち、小説では何を認めるのかと自問して、「墨東奇譚」だと答えている。