皇后さんが京橋の画廊を訪ねた話

 昔友人の勤めるメーカーの工場へ天皇が訪問したことがある。「訪問」じゃなくて何て言ったっけ? その時友人の会社は天皇専用のトイレを新設した。使うかどうか分からないが、仮にも天皇に少しでも汚れたトイレを使って頂いては申し訳ないということなのだろう。皇族は汚れたトイレの存在を知らないかも知れない。
 上野公園で顔役らしいのがホームレスに弁当を配っているのを見たことがある。ブルーの養生シートのテントがきれいに片づけられて、翌日そんな痕跡が一切ない公園に隣接した道路を皇太子夫妻が手を振りながら走り抜けていった。
 吉本隆明の「少女」という詩を思い出す。

わたしには彼女たちがみえるのに 彼女たちには
きつとわたしがみえない
すべての明るいものは盲目と同じに
世界をみることができない
なにか昏いものが傍をとおり過ぎるとき
彼女たちは過去の憎悪の記憶かとおもい
裏切られた生活かとおもう
けれど それは
わたしだ
生れおちた優しさでなら出逢えるかもしれぬと
いくらかはためらい
もつとはげしくうち消して
とおり過ぎるわたしだ

 京橋のXギャラリーという東京でも最もボロい画廊へ美智子皇后がお忍びで訪れたことがある。数年前のことだ。子供の頃高電圧線に触れて両手を失った画家の個展が開かれていた時だ。画家は絵筆を口にくわえて絵を描いている。10万円の作品を購入されたらしい。
 Xギャラリーは古いビルの地下にある。階段がすごいのだ。段の高さがマチマチなのだ。しかも中央が少し凹んでいたりする。加えて天井の高さも一律ではない。さすがに階段を作り替えることはしなかった。皇后さんはカルチャーショックを味わったに違いない。いままでこんなにボロい建物に足を踏み入れたことがなかったのではないか。
 XギャラリーのXさんは真面目な画廊主で、このことを他言する人ではない。審美眼にも優れている。学生時代は新左翼の闘士でもあったと彼の先輩が教えてくれた。私はなぜか皇后さんもXさんも嫌いではないので、この話が美談に思えるのだ。