恋は盲目だなんて何という冗談だ

 フィリップ・ソレルスの「奇妙な孤独」に「恋は盲目だなんて何という冗談だ。眼差しこそがすべてだというのに。」という文章があると思っていた。何しろ42年前の読書なのだ。読み直して見たらそんな一節はどこにもなかった。そんなはずはないと思って調べてみたら、ソレルスにはヌーヴォー・ロマンの「公園」を書く前、「奇妙な孤独」の他に「挑戦」があった。こちらが処女作だった。これも読んでみた。そしてここに見つけた。

恋は盲目だって? なんという冗談だ! まなざしがそのすべてだというのに!

 少し違っていた。それからほかに気に入っていた文章もここにあった。誰の文章か忘れていたのだ。

いつの間にか書く習慣を身につけていた。それが僕の不幸の解決策を垣間みさせた。

「奇妙な孤独」も「挑戦」もさほど優れた作品ではなかった。これらを読んだのは私がまだ18歳だった頃だ。本当の人生がようやく始まったばかりだった。
 ソレルスはこの後「公園」を書き、伝統的な小説とは縁を切ってヌーヴォー・ロマンへと進む。「公園」は「挑戦」と1冊の本になっていたのでこれも再読した。もうつまらなかった。訳者後書から引用する。

 最初の一読では、しかし、おそらく断片のよせあつめという印象しか読者は持たないのではあるまいか。筋らしいものは一切ない(それは拒否されている)。現在形で書き出された文章が過去形で結ばれ、《僕》ではじまった句がいつのまにか《彼》の言動をあらわしている。(中略)
 ソレルスがこの作品で目ざしたものは、きわめて意識的な構築なのである。一見なんの脈絡もなさそうに配置された54の断片、それ実はいかに意識的に配列されているか。二読し三読するうちにそれがわかってくるであろう。ソレルスのいう空間がおのずから読者のなかに形づくられてくるでありう。(レネの「去年マリエンバードで」がそうであるように、この作品は繰り返し読まれることを要求している)。

 もう繰り返し読むという気力はない。もっと読みたい本がたくさん控えている。当時このソレルスアラン・ロブ=グリエナタリー・サロートミシェル・ビュトールクロード・シモンなどのヌーヴォー・ロマンを夢中になって読んでいた。今もしそれらを読み直せば当時のように夢中になれるのだろうか? 何といっても42年前の私はまだ謙虚だったし、進取の気性に富んでいたのだった。
 仏文学者の杉本秀太郎が近頃ヌーヴォー・ロマンを否定しているのを知った。当時なら公には言えなかったのではないか。