井上隆夫展の作品がよく分からなかった

 京橋の村松画廊で井上隆夫の彫刻展「黙する言語」を見た(6月30日〜7月5日)。これが不思議な作品だった。画廊には木のオブジェみたいなものが並んでいる。壁には古い墓標が立てかけられている。作品とは言え誰かの墓標を持ってきてしまって良いのかと考えた。作家がこれは親父の墓標ですと言う。長期間雨ざらしになっていて木は古び、土に埋められていた部分は腐っている。作家がこれは本物ではなくて私が紙で作ったものですと言う。これが紙? 触ってみてもいいですよ。そんなやりとりを10分近く続けてやっと私は作家の言うことを信じた。形も表面の色も素材感も本物と瓜二つだ。別に小さな木片のようなものが2個あり、これは実物と作品で、作品の成り立ちを考えるきっかけにしてもらうために2つ並べているのです、持ち上げてみてください。重さも合わせてあります。ついにどちらが作品でどちらが本物か分からなかった。驚くほど精緻な作品、実物と瓜二つ、恐るべき技術! 
 作家は言う、流木などは作品のモデルとして取り上げない、必ず人の手で加工された木製品、それが古びて廃材化したものを再現しているという。「作品について」という作家のテキストから。

 私たちは「物」や「事」を”名付ける”言語活動によってそれらを自らの内に取り込んでいる。人間の諸活動の大半はその言語活動を基盤としてきたのは言うまでもない。しかしその言語活動も視点を変えれば恣意的なものであり、世界全体を表現し尽くすものでもない。
 役目を終えたり、変形を受けた「物」からは従来の名付けられた言語は剥奪され、本来的に「物」自体が有している”黙する言語”が語り始めると考える。
 作品は人間の行為が加えられ、使用され、廃棄された「物」の”黙する言語”を聞き取るため、木から紙を作るプロセスの逆、古紙により廃材風作品として個人的視点により追体験的になぞっている。

 テキストと作品の関係がイマイチよく分からない。それで作品の再現性の技術のすごさが、それ以上のどのような意味を持つのか分からない。作品の位置が分からなかった。