古代の諏訪信仰

「ちくま」6月号に中沢新一がエッセイ「折口信夫天竜川」を寄せている。最近ちくまプリマーブックスから刊行された中沢の新刊「古代から来た未来人 折口信夫」の販促のために書かれたのだろう。「古代から来た〜」は一昨年11月NHK教育テレビで放送されたテキストを元に書き加えられたものだろう。
折口信夫天竜川」には興味深いことが書かれている。
 旅行で立ち寄った浜松駅構内の本屋で著者はハイキングガイドブックを手に入れる。その本は名古屋や東海の山好きが日帰りや一泊で楽しめる気軽な山歩きを紹介するものだった。

 奥三河鳳来寺山あたりからはじまって、天竜川の両脇に広がる山塊がつぎつぎに紹介されて、そこから東にそれて静岡との県境地帯の山々に向かい、そのあたりを歩ききると、こんどは天竜川の流れを伊那谷に沿ってずんずん遡行して、ついに諏訪湖にいたる。私に驚きであったのは、この山歩きにひとつの意味をあたえる存在としての重要性をあたえられていたのが、諏訪湖のほとりの守屋山であると書かれていたことであった。
 その本によると、東海地方に住む山好きたちにとって、守屋山は昔からなにやら知れぬ奥深い意味を持っていたらしいのである。守屋山は数百メートルの高さしかない低山である。山容もとりたてて目立った特徴を持たない。ただ山頂からの眺めはすばらしい。眼下に諏訪湖の全貌が広がり、そのまわりを蓼科の山々が取り囲み、向こうには雄大八ヶ岳がそびえている。では、頂上からの眺望がすばらしいから、このガイドブックは守屋山を山歩きの源流の位置に据えたのかというと、どうもそうではないらしい。天竜下流域に住む人々にとって、昔から守屋山はなにか特別な意味を持った山であったらしいということを、その本の著者たちは言外に匂わせようとしているように、私には感じられた。
 守屋山は、諏訪湖の東岸に勢力をはっていた、「モリヤ」という古代部族が聖なる山としてあがめていた山だった。モリヤはおそらくこのあたりに高度な発達をとげた縄文文化の担い手だった人々、または彼らの首長だった家系の名前であろう。ところが古墳時代の末期に、このモリヤの地に、天竜川を遡って、ヤマトでの政争に敗れたイズモ族の一部が侵入してきた。
 モリヤたちはこの侵入者を食い止めようと全力を尽くしたが及ばず、ついに諏訪の地はイズモの支配するところとなった。しかし、イズモは政治の支配者となることはできたが、この土地に暮らす縄文の伝統を保ち続けていた人々の心まで支配することはできなかった。この地に諏訪神社を中心とする巨大な信仰圏が形成されるようになっても、その精神的な「奥の院」を握るのは、政治的に敗北したはずのモリヤの系譜につながる人々であり、そのために諏訪の信仰そのものが、中央に発達した神道とはおよそ体質の異なる「縄文的神道」としての野生を保ち続けることになった。イズモとモリヤはともに敗北したもの同士として共生しながら、この地に独特な諏訪信仰を発達させたのだった。(後略)

 建築家の藤森照信が幼なじみから乞われて神長官守矢資料館を設計したが、それが中沢のいうモリヤの神を祭る信仰の資料館なのだ。そして藤森に設計を依頼したのが縄文時代から続く守矢の神主の末裔なのだ。
 こに関連して以前「なぜ出雲のタケミナカタが諏訪に逃げ込んだのか」(id:mmpolo:20070522)を書いた。おそらくイズモ族は天竜川を遡ったのではなく、その支配下にある新潟から信濃川千曲川を遡ったのだろう。
 私は天竜中流域の飯田市近郊の生まれだが、守屋山に関する話はついに聞いたことがなかった。古代諏訪地方に関する資料には諏訪の勢力範囲は現在の駒ヶ根市大田切川までだったと書かれていた。駒ヶ根市飯田市のさらに上流なのだ。


 藤森照信の建築作品のページ。ここで神長官守矢資料館が見られる。
 http://tampopo-house.iis.u-tokyo.ac.jp/fujimori/f-work-fs.html