「ボローニャ紀行」と「世界共和国へ」を読んで

 井上ひさしの「ボローニャ紀行」(文藝春秋)を読んでいる。毎日新聞渡辺保の書評が載っていた。

 まずは抱腹絶倒の大笑いからはじまる。
 イタリアはボローニャ。空港へ着いたとたんに著者は有金全部を盗られる。一瞬の出来事。資料を買うための金だから大金である(1万ドルと200万円)。
 すっかり落ち込んで日本の留守宅へ電話をすると、イタリア暮らしの長かった奥さんが笑って「イタリアを甘くみたわね」。イタリアでは潜水艦だって丸ごと盗まれるんだから。ナポリ港で乗員全員が上陸した夜、潜水艦が丸ごと一艘姿を消した。その艦長よりまだましだと思ったらば、著者もようやく眠れた。

 イタリアの憲法が紹介される。第1条〈イタリアは、労働に基礎を置く民主的共和国である。主権は、人民に属する。人民は、この憲法の定める形式および制限において、これを行使する。〉
 ついで憲法第45条で、「互いに共生するための社会的協同組合をどしどし作りましょうと、人民が宣言しているわけです。」そしてボローニャ郊外のコーパックスという社会的協同組合を訪ねる。ここは生産活動を通して障害者の職業訓練を行なう半農半学の教育農園なのだ。

 ボローニャの市民の何人かが社会的協同組合を結成して、なにかを作り始めたとする。すると他の市民たちは、とにかくまずお客になってあげようとするのです。「それは感心、寄付をしましょう」は下策中の下策、客となって品物を買い、そのことで事業を支えてあげる。つまりこれが「共に生きる」というボローニャ精神です。

 次に柄谷行人「世界共和国へ」(岩波新書)から。

 個別企業では、経営者と労働者の利害は一致します。だから、生産点においては、労働者は経営者と同じ意識をもち、特殊な利害意識から抜け出ることは難しいのです。たとえば、企業が社会的に害毒となることをやっていても、労働者がそれを制止することはしない。生産点においては、労働者は普遍的ではありえないのです。企業や国家の利益に傾きます。それに対して、たとえば、環境問題に関して、消費者・住民のほうが敏感ですし、すぐに世界市民的な観点に立ちます。
(中略)
 これまで生産過程におけるプロレタリアの闘争として(政治的)ストライキが提唱されてきましたが、それはいつも失敗してきました。しかし、流通過程において資本はプロレタリアを強制することはできません。働くことを強制できる権力はあるが、買うことを強制できる権力はないからです。流通過程におけるプロレタリアの闘争とは、いわばボイコットです。そして、そのような非暴力的で合法的な闘争に対して、資本は対抗できないのです。

 この2つは楯の両面だろう。資本に対抗して買ったり買わなかったりすることで影響力を発揮する。この記述の前に社会主義の方法は東欧の崩壊で失敗が明らかになったとしている。しかしながら、商品のボイコットにも限界があるだろう。たとえば日鉱グループの鉱石や三菱重工の兵器を個人が買い控えるのは難しい。ボイコットは万能ではない。そのことを踏まえれば立派な対抗策だろう。