広田伸七・編著「ミニ雑草図鑑」のまえがきに次のような一節がある。
「雑草と言う言葉はない」昭和天皇のお言葉である。確かに夏の道端で焼けるようなアスファルトの裂け目に、したたかにも生長する雑草。1週間も放っておくと忽ちはびこってくる庭の雑草にも、立派な和名と学名が付いている。しかし、雑草と言う言葉は日常使われている。「雑草のように逞しく」とか「雑草防除」から雑草学会と言う雑草を研究する学会も存在する。雑草と言う言葉には市民権が与えられている。
昭和天皇のこの「お」言葉は、「雑草」という言葉に対して否定的な意味を持っている。雑草という植物はない、すべての草は立派な名前を持っている、と続くはずだ。昭和天皇は雑草という言葉が好きではなかったに違いない。いわんやその言葉を冠した図鑑など堪えがたいくらいのものだろう。
それなのになぜ「ミニ雑草図鑑」のまえがきにこの言葉が引用されているのか。おそらく著者は昭和天皇の真意が理解できないからだろう。そして著者が皇室を崇拝しているからだ。これは茶番だ。
「編著」とは何か。普通1冊の本を多数の執筆者が執筆していて、それをまとめる者を編者と言い、編者が執筆者を兼ねている場合に編著という言葉が使われる。著者が一人なのに編著はないだろう。
この図鑑で編著とされているのは、実は著者の引け目を示している。著者は研究者ではないため、図鑑の記載をすべて他の図鑑から引き写しているためだ。それで単に「著」とし得ないで「編著」としているのだろう。植物図鑑の原稿を書くときに、机の上にいつも数冊の図鑑を広げてそれらを見ながら書いていると言っていた。
レイアウトもお粗末だ。岩本久則氏から、ちゃんとデザイナーを使ってレイアウトすべきだとアドバイスされた。驚くべきは大事な扉を、1章と2章でまとめて1ページ、3章と4章でも同じくまとめて1ページで済ませていることだ。なぜこんな大胆なことをするか? 単にページを節約するためだ。内容もお粗末だ。オモダカはの項では「秋に根を掘りあげて見ると先に塊茎が多数ついている。」とあるが、塊茎がついているのは根ではなくて地下茎なのだ。少なくとも図鑑の記載ではない。