多和田葉子「エクソフォニー」を読む

 多和田葉子の「エクソフォニー」(岩波書店)を読む。副題が「母語の外へ出る旅」。20の国へ出かけて言葉について考えている。

 (エルンスト・ヤンデルの放送劇)「ヒューマニストたち」では、いわゆる出稼ぎ労働者のドイツ語を思わせる構文をわざと並べていって、その表現力の可能性と、それを「わるいドイツ語」として抑圧しようとする側のぎょっとするような言語のファシズムを浮き彫りにしてみせる。移民労働者の言葉が良いといっているのではなく、言葉は壊れていくことでしか新しい命を得ることができないということ、そしてその壊れ方を歴史の偶然にまかせておいてはいけないのだということ、芸術は芸術的に壊すのだということをこの放送劇は教えてくれる。

 なかなか刺激的な読書だった。
 次の引用はちょっと面白かった箇所。

 言葉の中にも音楽はあるが、普段はなかなかそういうことには気がつかない。小説を読んでいる時には、話の筋や登場人物の性格などに気をとられすぎて、他のことにまでなかなか気がいかない。たとえば、「食べたがる」という表現に現れた「がる」という単語などは、「がる、がる、がる」と繰り返してみると分かるが、随分個性的な響きをもっている。ところが、普通に読書している時には、なかなかそのことには気がつかない。「がる」がその前にある動詞から切断されてたっぷり発音された瞬間に、その響きがいわゆる「意味」に還元しきれない、何か別のことを訴えかけてくる。

 この「がる、がる、がる」を読んで、これは知っている音だと思った。記憶の底からゆっくりとそれがやってきた。ブラジルの歌手ガル・コスタGal Costaのアルバムの中に「ガル、ガル、ガル」と叫ぶファンの声が入っていた。このガルのライブを中野サンプラザに聴きに行ったのは娘がカミさんのお腹の中に入っていたときだった。