新潮社のPR誌「波」2007年12月号に、大江健三郎への短いインタビューが載っている。「臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ」の刊行記念インタビューだ。7つの質問のうち2つの質問と答えを引用する。
ーータイトルの中心にある、「アナベル・リイ」はポーが、詩の中に作り出した永遠の少女です。大江さんはこの詩を初めて読んだ17歳のころから、アナベル・リイは、「自分から一瞬も去ったことがない」と書かれています。この小説を構想されたのは、いつごろ、どんなきっかけがあったのでしょうか。
詩を読んですぐは、言葉としてだけ、頭にあったんです。それも、日夏耿之介の訳と、占領軍のアメリカ文化センターで写して来た原文とがつながったかたちで……
臈たしアナベル・リイ
My beautiful Annabel Lee,
というのと、
……アナベル・リイ
さうけ立ちつ身まかりつ。
Chilling and killing my Annabel Lee.
それがしだいに視覚的なイメージとして、遠方の霧のなかに浮かび上がってくる。少年時にはそうでした。
ところが私のアナベル・リイは、青年時には若い娘として、壮年時にはまたそれなりの年齢の女性として、「成長」してゆく。内面的にも、人生の経験においても、私より幾らか年長の、しっかりした、かつは美しい女性として…… 壮年時というものは永いですからね、やはり霧のなかにいるそのイメージが、時をかけて年齢を加えてゆく。人生の傷跡というようなものも、威厳も加わる。しかしあいかわらず美しい。ユーモラスでもある……
そして私が、とうとう「晩年のスタイル」の小説を書く時だ、と考え始めた時に、ついに霧のなかからこちらに近付いて来てくれた……というふうでした。
小説のなかに、ポーとはまた別にエリオットの詩句を引用していますが、それを女言葉に訳すと、
《なんだ、あなたはこんところにいるの?》と声をかけられた気がしました。
ーー小説技法上で自ら課したテーマはどんなことでしたか?
つまり、技法として、またそれとしっかりカラミあったテーマとしても、ということでしょうが、なによりも、ーー自分は、この女性のことを物語るんだ! ということだけでした。そして、松山のアメリカ文化センターでひとり夢想していた少年に、さあ、きみのアナベル・リイの、死と再生について書いてやる、書き方なら一生かけて準備してある、と呼びかける気持でした。
「ロリータ」は、幾度か読むたびに、そこではアナベル・リイが現実の少女として現れるだけに、いつもドキリとした。そして、そのドキリとする仕方が、こちらの年齢によって変ってくるので、いつかはこういうのじゃない自分のアナベル・リイを書く時が迫って来る、と予感していました。
それと、私のなかに、女優サクラさんのような女性像がずっとあったことも事実です。若くして死んでしまうアナベル・リイとは逆に、永く生きるその女性を、自分も年齢をかさねるにつれて、当の私よりわずかに年長の、美しく、豊かな内面の、それでいてなにか危うい曲がり角にいつも立っているような……しかも決して、自分の受ける傷に屈服しない、という女性像として……
これでインタビュー全体の約1/3だ。
大江の言っていることは概ねこのとおりなのだろう。しかしながら、「臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ」を読めば、本書のテーマは以前にも書いたとおり、日米の戦後関係史に他ならないことが分かる。戦後すぐの、幼いときにアメリカ人に陵辱される少女サクラは戦後日本そのものに他ならないし、その後そのアメリカ人に保護され国際的女優に育てられるサクラも戦後高度経済成長した日本なのだ。
(略)なにより強制送還されないように私とデイヴィッドは結婚したんです。10歳の時からデイヴィッドに庇護されてきたんですし、小さいうちは広い家を私が恐がるので、一緒のベッドで寝たし、娘になってからも、デイヴィッドの日本趣味でお風呂は和式でしたから、一緒に入りました。結婚して、これから同じ寝室だということに抵抗はありませんでしたよ。そして実際に結婚しても……子供の時そうしていたように、ひとつベッドで寝ますが、あの人はなにもしません。それが自然でした。私が眠るまでただずっと抱き合ってキスしてくれてるだけで……これも私が子供だった時と同じです。
それでも二年、三年と、そのような結婚生活が続いていると、デイヴィッドが無理にというのでもなく、私が誘ったのでもなくて、愛撫の仕方が変って行ったんです。デイヴィッドが私のおなかや腿に手を置いているだけだったのが、いつの間にか私の身体が自然に動いて、その手や指を引き寄せるようにして、直接あのあたりを愛撫されているようになりました。愛撫しているのはデイヴィッドですが、なにか懐かしい気持で、それをいつまでも続けさせているのは私、というふうでした……
もちろん私は、自分とデイヴィッドの続けていることが、夫婦の性的な関係ではないと知っていましたよ。そして、そうであるから、私は神様に恥かしくないんだ、と思っていました。もう性的な知識は豊かにありましたしね、それに照らしての判断だったんです。どんなに長く愛撫を続けていても、デイヴィッドが私のなかに入ってくることはなかったからです。
そしてまた時がたって、本当に偶然に始まったのですが、私の手がデイヴィッドの性器を包み込むようにしてた時、そこにデイヴィッドが手を重ねて動かして、新しいことが起こりました。初めはおなかだったか、お尻だったか、私の身体に向けて滴るものがあった……そうすると私の方でも、これまでいつまでも続いているだけだった気持が高まって、アーアーと声を出していた。それからあらためて抱き合って、穏やかに静かに眠りました。それが習慣になると、デイヴィッドが私のおなかや腿、お尻にまで滴らせるものが、私の気持ちに必要な、ある段階のしるしなので、来て! と私が催促するようにもなりました。
……このように、デイヴィッドと私の、長年続いた結婚生活がありました。それは、私たちにとってなにより良い結婚生活だった、と思います。
(中略)
そこでね、先生にデイヴィッドと私の関係を、正しく把握していただきたかったの。庇護されて、可愛がられて、成人すれば自然に結婚まで進むし……それでいながら、性的な関係では、少女の思い込みの我が儘を通させてもらった……まるごと自立した女性としてとらえていただきたいの。
本書のヒロイン女優サクラのこの異常な告白(どこの世界にこんな告白をする人間がいるだろう!)こそ、大江の書きたい戦後日米関係のアナロジーなのだ。戦後アメリカに「庇護」されて、安保条約という片務関係の条約を結び、国際世界へ押し出してもらっている日本がサクラなのだ。サクラが「私たちにとってなにより良い結婚生活だった」という内実が異常な性生活であり、デイヴィッドだけが射精に至るもサクラは本当の喜びを知らないまま、それが自分の我が儘を通してもらっていると思い込んでいる。私たちはこの告白に対する違和感から本書の本当のテーマに気づくことができる。(以前「合掌の法則」でそのことを書いた)。
しかしもちろん大江はインタビューでそのことを語らない。それは作家が語ることではなく、読者が読みとるべきものだからだ。だが大江の小説は小説として見事に成功していて、なかなか尻尾を掴ませないようだ。新聞に現れた書評を見てみよう。
まず昨年末頃読売新聞に掲載された川上弘美の書評「小説、この奇妙なもの。」から。
(前略)
小説家「私」と大学時代の友人である映画プロデューサー木守、戦後すぐに若くして一世を風靡した女優サクラさんの三人を中心に進むいりくんだ糸の流れを追ってゆくうちに、ほんとうに私はいろいろなことを思った。痛めつけられる、痛めつける、ということ。生命あるものは自分の持っている情報を伝達するよう形づくられている、ということ。記憶というもの。眠りにまつわるさまざまなこと。自分にとって大きな出来事の側面であの人は実はどうしていたのだったか。昔おこなったフナの解剖、怖かったけれど面白かった。生きるよろこびって何、簡単に言えるけれど言ったそばから違ってしまう。言葉はどこからどこまでが言葉なのか、本来の意味を越えつつ保ちつつ。ぶどうの紫色はおちにくい……。
あまりに脈絡がないので恥ずかしい。こんなにもさまざまに思ったのは、この小説がとても具体的だからなのだと思う。小説中の人たちが、小説のためではなく、現実の人のように、無秩序に動いたりやって来たり消えたりする。読み終わり、私はとても大きくて正確なメッセージを聞きとめた。けれどそれだけでなく、雑音のようにたくさんの自分自身の思いも聞きとめた。えがたい時間だった。
小説。この奇妙なもの。いつまでもなくならないでほしいと思う。切実に。
ついで、朝日新聞2007年12月16日に掲載された巽孝之の書評。「限界を試し想像力の源泉を問い直す」
なんとも不思議なタイトルは、19世紀アメリカ・ロマン派作家ポー晩年の名詩「アナベル・リイ」に、戦後、日夏耿之介が施した名訳に則る。熾天使に妬まれ夭折する美少女アナベルのモチーフは、20世紀に入ると南部作家ウォレンの長編小説「オール・ザ・キングス・メン」(邦訳「すべて王の民」)へ、さらにロシア系アメリカ作家ナボコフの代表作にして、20世紀英語文学ベスト10にも数えあげられることの多い「ロリータ」へと受け継がれる。今日の「ロリコン」「ゴスロリ」の原典におけるロリータは、主人公ハンバート・ハンバートの夭折した幼なじみアナベルの再来なのである。
こうした世界文学的伝統に、我が国を代表する作家はいかに挑戦したか。
(中略)
主人公はこれ(ドイツ作家クライストが19世紀初頭に執筆した中編小説「ミヒャエル・コールハースの運命」を映画化するという計画)を、自らの故郷である四国でじっさいに起こった農民一揆に置き換え、中心人物であるコールハース役を女性に振り替えるという構想を練る。一度はスキャンダルで挫折するも、30年の歳月を経て、いよいよ製作再開。暴走する老芸術家たちのみならず、挫折から立ち直った元少女スターが、国家も時代も顧みず「後期の仕事」を共作していくクライマックスは、作家生命の限界を試し創造力の源泉を問い直す作業として、胸を打つ。
参考までに以前書いた関連エントリーを。
大江健三郎「臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ」を読む
なぜ日夏耿之介のポーの詩の訳文が大江健三郎の新作の題名に選ばれたのか
ハンプティー・ダンプティーを知っているか?(これは巽孝之の書評中に言及されている「オール・ザ・キングス・メン」に関連して)
上記「合掌の法則」