中津川浩章の「上海アート紀行」からー中国の現代アートについて

 画家の中津川浩章さんから「上海アート紀行」を送っていただいた。中津川さんは優れた現代美術家(画家)で、また筆も立つ人だ。以前浅草橋のマキイマサルファインアートでの個展を紹介したことがあった。「中津川浩章個展を見る」。今年、上海アートフェアに参加するため上海に1か月滞在し、その間に上海博物館に5回も通い、ギャラリー街を歩いて、現在市場評価の高い中国現代アートを見てきたという。
 「日本ジャーナリスト会議・JCJ広告支部ニュースNo.67、2007年11月号」に掲載された中津川浩章「上海アート紀行」から中国の現代アートに関する部分を抄録する。
 中国の現代アートは、西欧近代のキュービズム、シュルレアリズム、抽象表現主義などの様々なアートのイズムや形式を通過した痕跡がまるでなく、社会主義リアリズムのプロパガンダに直結していると説いている。中国の現代アートについての優れた分析だと思う。

 上海のもうひとつのアートな場所は「M-50」と呼ばれている地区で、使わなくなった工場街を行政がバックアップし、ギャラリー街に生まれ変わった場所。主に現代アートのギャラリーが100軒位集中し、上海の現代アートの発信地となっている。やはり北京にも「798」という同じコンセプトのギャラリーエリアがあるが、北京の「798」が先にでき「M-50」は後からできたものだ。この事に象徴されるように現代中国では政治の力が、文化にも影響しているという意味においても、文化・アートの中心は北京なのだ。上海はこれから文化的に盛り返そうとして様々な企画を計画している(わたしが参加する上海アートフェアーもその一環)。そんな「M-50」なのだが、使わなくなった工場やビルを改造してギャラリーに使用している為、すごくチープだったり、やたら広いギャラリーがあったりするが、固まって在るためとても見やすい。アーティストが自分の仕事場とギャラリーを運営していて、1年中その本人の個展を開催しているギャラリーだったり、明らかに昨日の夜は、アートについて熱く語り合ったと思われる宴の後が、ギャラリーの片隅に残っていたり、展示方法も床にたくさんの絵画を立てかけて、とにかく沢山の作品を見てほしいという情熱にあふれている。そんなまだ型にはまっていないエネルギーがとにかく熱い。ギャラリーはたくさんあるのでサクサク見てまわることができて楽しいのだが、内容的には???というものも多かった。ヴァリエーションが豊富で玉石混交、インスタレーションなどの現代アートから水墨画まであるし、日本だったら現代アートのカテゴリーに当てはまらないであろう人物画や古いタイプの抽象絵画まである。もちろん、これぞ現代絵画というようなぶっとんだ作品にも出会えるのだが、どこか表面的で、ある意味お金の臭いもぷんぷんしてくるのだ。聞いたところによると、中国は今、アートブームで何百万円もする作品がよく売れ、成功した若いアーティストもたくさんいる。その為、そのアートの内容ではなく投機の対象になっている側面もあり、熱い肯定的なエネルギーだけでなく、どこか計算高く醒めた部分も感じた。しかし、私が最も興味をもったのは、そのようなアートを巡る周辺的な事柄ではなく、作品の内容そのものと、作品が生まれてくるアートと社会のコンテキストだ。そこで、強く感じたのは「近代」というものが、中国のアートにはすっぽりと抜け落ちていると感じた事だ。人間の内面と表現されるものとの関係性が希薄で、表現のイメージが記号的、タッチや色彩に個人的な感覚のこだわりが反映されていないため、全て意味化されすぎ、作品に拡がりが感じられない。その為、すべて予定調和的な作品が多いのだ。


 トウ小平の経済開放路線以前の中国のアートは農民や労働者を賛美し理想化する社会主義リアリズムや毛沢東共産党共産主義賛美のプロパガンダ絵画がほとんど。そして現在の美術教育もさすがに社会主義リアリズムやプロパガンダ絵画は減ったものの、その路線に沿うものや人物などを写実的に描写するスタイルや、プロパガンダと関係する表現主義的なスタイルが主流だと聞く。そのせいか西欧近代のキュービズム、シュルレアリズム、抽象表現主義などの様々なアートのイズムや形式を通過した痕跡がまるでなく、そのまま様々なメディアを取り込んだ現代アートの形式に突入している。それはある意味中国と現代アートとの蜜月というべき状態で、現代アートが持っている特性であるポストモダニズムによる西欧の相対化、それに関係する社会・政治の情報性の形式と中国アートの中にある古いプロパガンダ性の体質が奇妙に相似形をなし、現代中国アートが成立しているのだ。


 たとえば、「M-50」で見たもので異なるアーティストがつくっているが、なんだか似ているなあと感じた作品が多くあった。人民服を着て毛沢東語録を握り締めている紅衛兵を描いている絵画。大画面、どぎつい色彩で描かれているところまで似ていた。キャラクター化された毛沢東の肖像。マシンガンをもった長髪、美少女の人民軍兵士(まるで日本のアニメのようだ)の絵画のようなものまで類似した作品があった。多分テーマは流行し共通しているのだろう。先に書いた中国社会、近代中国共産党史のコンテキストとの関係性がアートの生まれてくる場所になっているということだ。たとえば長征や文化大革命に対するイロニーあるいは批判、あるいは憧憬。そしてそれらを対象化しないまま消費社会のシステムを取り込んだ現代中国を批評することがスタイルになっている。私が知らないだけかもしれないが、当然、天安門事件を扱ったものはない。ただ、世代的に天安門世代の作家は少なく(実はこの世代のアーティストの多くは天安門事件により投獄されたり、海外に逃亡している。数少ない例外は蔡国強や映画監督の陳凱歌など)それ以降の世代が中心だ。そのためか当事者として痛みに対する感覚が薄く、問題が外在化されていると感じた。そこが表面的だと私が感じたところなのだ。そしてそんな傾向のアートが、もてはやされ同時に売れていくトレンドになっていることも興味深いのだが、さらにそれが現代中国の絶好のプロパガンダになっているというイロニーだ。現代中国はこのような体制批判をする表現の自由も容認している国家ですよ、ということが見事にアートを使い世界に発信できてしまっているのだ。アーティストは真摯に制作し社会に問いかけていることが、うまく利用されている結果となる。勿論、中国のアーティストもそれをまた利用し、行政のバックアップを受け権力側に気が付かれないような複雑なイメージや方法で現代中国を批判していく方法をとる。


 中国現代アートは消費対象となりながら、同時に中国民主化運動と重なり、さらに中国のプロパガンダにもなっている。この複雑さとねじれが、中国ならではというか、数々の激烈な歴史を生きてきた一筋縄ではいかない暗い闇だ。また、それだけ日本より中国のほうが現代アートの社会における重要性が高いということだろうし、何処まで言ってもある種のプロパガンダ芸術の域から出られないということでもある。ただ、アートを個人的な表現ではなく徹底的に社会的な表象として考えると、中国のアートはそのねじれと複雑さにおいて今一番面白いのだろう。