伝説のゼロ次元のパフォーマンスが再現された

 先月末、伝説のパフォーマンス集団「ゼロ次元」が30数年ぶりに出現した。多摩美術大学で、今まで白黒映画でしか見られなかった「いなばの白うさぎ」が実演されたのだ。
 この「芸術とシャーマニズム」と題されたシンポジウムを主宰した小関諒子の趣意書より

 私は、中沢新一教授の講義を聞いて衝撃を受けた。現代において、日本が西欧グローバリズムの方向へ急速に向かった結果、日本やアジア本来の、シャーマニズムの思考や多神教的な世界観の重要性が忘れ去られつつあるという危機を感じたのだ。
 この状況を芸術によって打開できないかと考えていた時、偶然にもゼロ次元を主宰した加藤好弘氏に出会った。ゼロ次元とは、60年代に「儀式」と称する街頭での「全裸」による奇怪なパフォーマンスによって、一大センセーションを巻き起こした集団である。その過激でナンセンスな「儀式」故に、マスコミは彼らをスキャンダルとしてしかとらえなかった。しかし、彼らが真にスキャンダラスであったのは、その外面的過激さなどではなく、「儀式」に隠された巧妙な仕掛けにあった。彼らの「儀式」は、西欧が「恥部」とする生の「性器」を、突如として無理矢理に公衆の面前に展開することで、政治・経済ばかりか、芸術や文化、個々人の感性までもが西欧の価値観に傾倒している危機的状況を暴き、アンダーグラウンドから揺さぶりをかけ破壊する「芸術テロ」そのものであったのだ。
 例えば万博破壊共闘派の活動において、太陽の塔をめがけ全裸で疾走したり、股間に「わいせつぶつ」と書いたふんどしを巻いたり一見ただのナンセンスな彼らの「儀式」は、「万博は、我々の性器(なま)に対応される、恥ずかしいもうひとつの猥褻物を陳列しているはずであった」という加藤氏の言葉に集約される、巧妙で痛快なテロ行為であった。
 そしてそれらの「芸術テロ」は、カオスがノモスをテロする、無意識が意識をテロする時に芸術が発生する、という加藤氏独自の「シャーマニズム論」ととらえられるのではないかと私は考える。ゼロ次元は、そのスキャンダルの多さや反体制的な活動の過激さ故に、「日本近現代美術史」から抹殺されてしまっている。しかし、アジアの多神教的世界観、日本美術の本流ともいえるシャーマニズムは、皮肉にも、日本近現代美術史に語られる事のなかった、このゼロ次元にこそあるのではないだろうか。(後略)

 ゼロ次元は1960年代から70年にかけてすこぶる変わったパフォーマンスを繰り返していた。10人前後の男女が全裸で踊るのだ。踊りと言っても皆が列になって一斉に四股を踏むように足を上げて進むのだ。「いなばの白うさぎ」はワニ(フカ)という設定で全裸で寝ている男たちの背中を、ウサギという設定の全裸の女たちが片手を挙げて渡るのだ。その映像だけは見ていた。
 多摩美には2年前に中沢新一が教授で招かれた。ゼミで中沢はシャーマニズムを紹介したらしい。それを聞いた学生がゼロ次元の主宰者加藤好弘に会い、当時ただ一人ゼロ次元を評価した美術評論家針生一郎に声をかけ、加藤、針生、中沢の対談という今回の企画が実現したらしい。対談の前に過去のゼロ次元の映像が1時間も流れ、ついで加藤好弘のアジテーションが30分、そのバックで現代の学生たちによって「いなばの白うさぎ」が延々と演じられた。用意した白いパンツが足りなかったとかで男子学生2名が全裸だったが残りは上半身裸、女子学生は1人トップレスで他の子たちはギリギリの小さな下着を付けていた。
 その後が3人の対談だった。もっとも中沢は司会役に徹していた。ゼロ次元は1970年の大阪万博反対を唱え、実際に万博会場でメンバーの一人がストリーキングをして警察に逮捕されている。その後加藤はインドへ行き、タントラやハシッシを知り、アメリカへ渡ってドンファンの教えやLSDを知った。
 針生を除いて日本の美術評論家は誰もゼロ次元を評価しなかった。だから日本の美術史から彼らは抜け落ちている。そうは言ってもゼロ次元を位置づけるのは難しい。ほとんどナンセンスなあれらの行為にどんな意味づけをしたらいいのだろう。椹木野衣の「日本・現代・美術」には好意的な評価がされているが。
 対談からは公にしがたい超過激な発言がいくつも発せられた。聴衆の一人としては面白かったけれど。前記3名の対談者のほか、堀浩哉、おおえまさのりなども舞台へ呼ばれ発言した。
 これを企画したのが小関諒子という多摩美の学生だ。優れた企画を実現させたこの優秀な学生に敬意を表したい。