新聞の文章は分かりやすさを旨としている

 新聞社へ投稿した文章がだいぶ直された。
「友人は魔孤さんの絵を2枚だけ持っているという。実家にあるから今度持ってきて見せてあげるよ。約束はまだ果たされていない。」
 これが「実家にあるから今度持ってきて見せてあげるよ、と友人は言った。その約束はまだ果たされていない。」と変えられた。「と友人は言った。」「その約束〜」のように分かりやすくなっている。新聞は分かりやすいことが大事なのだ。
 しかし「表現」にとって大事なことは分かりやすいことではない。まず読者の思考の導き方なのだ。どんな風に誘導するのか。読みながらどんな風に考えてもらいたいのか。ついでリズムが大切だ。昭和戯作体と言われた野坂昭如も無名の頃なら新聞社に真っ赤に直されたかも知れない。大江健三郎は長く翻訳調と言われていた。フォークナーは別々の人物に同じ名前を与え、読者がいちいち考えないとどちらの人物なのか分からないようにした。クロード・シモンは何ページにも及ぶ長い文章を書いた。これはフランス語では自然に続けることができるのだろうが、日本語に翻訳された文章で読んだのでこれが大変だった。総じてフランスのヌーヴォー・ロマンと称された小説は読みづらくしているかのように書かれていた。仏文学者の杉本秀太郎からはこっぴどく批判されていたが。
 なぜ皆そんなことをするのか。分かりやすい文章は意味の媒体=乗り物にしか過ぎない。意味を伝えた途端、文章は消えてしまう。残らないのだ。文章を物体化しようとしたとき、意味を多義的にしたり、象徴的にしたりすると、そこで引っかかって硬いものとして残りやすくなる。野見山暁治の文章のように語り尽くさないのも有効だ。
 分かりにくい文章がいいと言っているのではない。最低限論理的でありさえすれば、リズムや修辞を優先すればいい。分かりやすくなくても良いのだ。分かりやすいことは大事なことではない。
 新聞記者の文章は単に分かりやすいだけのものに堕してしまわないだろうか。