名文の秘密ーー野見山暁治の文章修業

 画家の野見山暁治は文章の巧さでも傑出している。1920年に福岡県に生まれ、小学校のときから絵を描き、東京美術学校(現東京芸大)に入学する。陸軍に入隊したがまもなく肋膜で入院、傷痍軍人療養所終戦を迎える。1952年31歳のときフランス政府私費留学生として渡仏、以後12年間フランス等に滞在し、1964年43歳で日本に帰国する。
 帰国前々年1961年に妻陽子の癌闘病〜死の記録「愛と死はパリの果てに」(のち「パリ・キュリイ病院」と改題)を出版し、1978年エッセイ集「四百字のデッサン」を出版してエッセイスト・クラブ賞を受ける。
 簡単に野見山の経歴を書いたのは、経歴のどこにも具体的に文章を修行した形跡がみられないからだ。野見山はあのすぐれた名文をいったいどこで学んだのだったか。それがずっと不思議だった。
 野見山暁治「遠ざかる景色」(筑摩書房)より。

 私は絵を描いている人間だから、言葉にして自分を表現するというような事はあまり必要ではない生活環境に生きてきた。ところが三十代をパリで過ごしてからは、フランス語がまるっきり判らないために、どうにもモドかしい生活を余儀なくされた。その土地の言葉を覚えようとあくせくしてみたが、あの厄介な文法用語がまず意欲をさえぎって、私は羞らいもなく尻尾をまき、無言でおし通すより致し方ない歳月を過ごしていった。現に住んでいる所で、殆ど自分の意志を表現できなくて生きていたらどうなるか。口の中でボソボソ呟き、果ては悲しく愚痴になる。それをすべて日本語で心に刻んでゆくわけだ。結局、日本語を四六時中、反芻しているようなもので、日本に居た頃より私は日本語で喋るのが、うまくなり、腹いせだかなんだか、とうとうパリで十年近くたったころ、六百枚の原稿を書きあげてしまった。
(中略)
 しかし日本へ帰ってみて、私は故国の言葉を忘れていたことに気がついた。今まで私が異国で上達したと思いこんでいた日本語はかなり間違っていたのだ。
 やあ、どうもどうも、その後どう、いやお陰さんで、まあボツボツ。私の友人は誰かとそんなことを言い交わしたあとで、あいつも近ごろは景気がいいらしい、と私に言った。あの短い挨拶のどこにそんな内容がふくまれていたのだろう。まるっきり意味をもたない、ただ僅かの口の動かし方にそのニュアンスを読みとる神経を私はすっかり失くしていたので、キミね、お陰さんでと言うけれど、オレは何もキミにしていないよ、というような変テコな問答になり、私はもう意気消沈してきた。

 少し分かった気がした。野見山はパリで日本語を反芻していたのだ、心の中で。そうは言っても日常、回りはフランス語が飛び交っている。フランス語は明晰で論理的な言葉だ(私はフランス語を知らないが、たしか辻邦生がこう書いていた)。野見山がフランス語の影響を受けなかったと考える方がおかしいだろう。こうして野見山の独特の名文が生まれたのだ。


 閑話休題。日本語は論理的な表現には向かない言語だという説がある。やはり仏文学出身の加藤周一の文章を読めば、その説が誤っていることが分かるだろう。加藤の文章は日本語でありながら明晰で論理的だ。論理的でないのは言語の問題ではないのだ。単に論理的に話すことのできない個人の問題だったのだ。