門田秀雄氏による瀧口修造試論「批評も思想ぬきで成り立つ」

 去る7月28日、東京京橋にあるギャラリイKで開かれている企画展《日本コラージュ2007》に関連してギャラリートークが行われた。ゲストは美術作家でもあり川崎市民ミュージアム学芸員でもある仲野泰生さんと、同じく美術作家でもあり美術評論家でもある門田秀雄さんだった。門田さんは美術批評誌「構造」を個人で主宰・発行されている。
 仲野さんは、日本近代の問題、個と共同体、岡本太郎の思想とその周縁について話された。
 門田さんは戦後の最も重要なモダニズム批評家瀧口修造について話された。瀧口はモダニズム美術においてカリスマであり、門田さんも記しているように徹底的に神格化されている。ここに紹介するのは講演の際に配られたレジュメである。いずれ瀧口修造論を完成させて発表するつもりだと言われたが、とても優れた内容なので門田さんにお願いしてテキストを提供していただいた。表題の「瀧口修造論試論『批評も思想ぬきで成り立つ』」は私が勝手につけたものである。

 わたしは制作と批評・評論の両方を発表してきましたが、現在のわたしのさし迫った課題はなにかというと、それは瀧口修造の批判的考察という課題です。わたしは『構造』という個人批評誌をやっているが、それが今3年ほど出せないでいる。幾つかの事情があるが、最大の理由は目標とする瀧口修造を論じることがわたしにとても難しいということです。しかしわたしはそれをどうしてもやらなければならない。やらないで死ぬわけにいかないのです。
 瀧口修造については、近年2回本格的な展覧会がなされている(松濤美術館、世田谷区立美術館)。そのカタログをみても、瀧口修造は現代美術の世界で徹底的に神格化されている存在なのがわかる。彼はまた、モダニズム系の数多の詩人たちによって、オマージュの献花で覆われている。ではなぜわたしは瀧口修造なのか。
 そこでここにいたるわたしの活動を簡単に話させていただきます。それはこの展覧会のタイトルである<日本>と関係するからでもあります。


 60年安保闘争に学生で参加したりしたあと、わたしは1960年代前半に大学の美術史を卒業した。この頃わたしの人生の願望はただ絵描きになれればいい、というもので、ただ、望む絵は自分をとりまく日本の現実に精一杯芸術的に対抗するような、しかし社会主義的リアリズム風とは違う絵だった。このころわたしの目に映った美術の状況は、批評を中心にして、徹底的に欧米の美術の動向を日本の美術のあり方の規範にする、という日本的モダニズム謳歌する時代で(その傾向は現在も基本的に変わっていないとおもうが)、この傾向はあまりに強く、広範であったので、それに対抗するには絵だけ描いていてはとても自分の立場を維持できそうもなく、言葉によって闘って自分の現状批判の世界をまもらねばならないと痛感した。
 ところが、絵を描いていく過程で、自分の制作が乗り越えていくべき日本の美術の具体的姿が歴史的に見出せないという問題にぶつかった。日本の近代および戦後美術について、大きな空白が幾つもあって、日本の近代美術史自体ができていないのが判った。現代美術の用語をつかえば、“文脈"が出来ていない。それでは、外国の文脈に繋げればいいかというと(村上隆はそうしろ、と現在言っている訳だが)、それでは自分が批判する相手と同じ立場になってしまう。また、あちらの文脈はこちらと関係なく自由にあちらの事情で発展していくので、あちらの文化的・社会的背景を把握しなければ、ついていけないし、うまくついていけたとところで、あちらの美術になってしまう。だから日本の歴史と現状から出発するほかはない。それには幾つもの空白を埋めて、それらの活動を一定に歴史的に位置づけて、歴史を連続させないと、自分の絵を載せるそもそもの足場が見えてこない。その足場がないと日本の美術は創れないと自分には思えたし、そうすることが唯一流行批評に対して自分を守る態度と考えた。


 そういうところから、わたしは会社勤めをしながら1975年から、日本の近代美術の空白を埋めるべく作品論・作家論を中心にして、評論を始めた。大正新興美術運動のその後の展開、戦後のアヴァンギャルド美術運動や前衛美術運動、洋画の戦争画への陥落、幾つかの現代美術の動向、日本画の問題や時評など。とりわけ、わたしがながく捉われてきたのは、西洋美術を絶対の基準としてきた洋画を中心とした日本の近代美術が太平洋戦争中にその西洋美術崇拝の立場から180度転換して、欧米敵視、アジア蔑視の排外的な国粋主義に同化し、海外侵略戦争の美術を通したイデオローグとして機能していったという事実。一方で、皮肉にも、この太平洋戦争期は日本の美術界が国民大衆とこころをひとつにした唯一の時期なのでもあった。これは近代美術史の中心核になる問題のひとつである。
 しかし、この問題は美術界で今日までまともに論じられず、空白のまま放置されてきた。わたしはこの空白を埋めるべく、とくに代表として3人の戦中に活躍した美術家の作家論を、作品論を中心にして、発表した。藤田継治、須田国太郎、福沢一郎。
 そこでわたしは彼らの戦争期の活動とその顛末、絵画の内部構造などを把握することができた。しかし、画家達の問題はクリアーできたが、瀧口修造はそうはいかなかった。その理由はふくざつだが、とくにフランスのシュールリアリズムが多様な面をもって展開をした運動であったことと、彼が美術批評家であるほかに、詩人でもあったこと、また彼の詩や批評がどのような性格をもっていたのかその解明の問題、など。難問山積。つまり幾つもの性質の異なった事柄を相手にしなければならないわけである。


 わたしはここで、すでに述べたことでなく、現在考えていることを話そうとしている。


瀧口修造は戦前から戦後にかけてどのような生き方をしたのか


 彼は、戦前にシュールリアリズムの自動記述の作法にのっとった独特の詩作品を詩集として発表し、その後、詩をはなれ、西洋の20世紀美術の啓蒙書である有名な『近代芸術』を出す。そのあと、日中戦争から太平洋戦争に向かう昭和16年、治安維持法のもとに前衛芸術の思想をもつという嫌疑によって、福沢一郎とともに逮捕され、8ヶ月拘禁される。彼は釈放されたあと、やがて権力側の意向に添って、戦場へ徴兵されていくひとびとを支え、うやまう詩、戦争詩、を書き、戦争画家を鼓舞し、米国を誹謗中傷する文章を書いていく。彼はこうしてシュールリアリズムの前衛的批判精神を手放したばかりでなく、戦争遂行を鼓吹する芸術イデオローグに転化していった。いわゆる二重転向である。しかも、敗戦後、彼は戦中を単に「日本の悲しむべき空白」(『近代芸術』再版の序1949年)の時期として、自他の責任を問うことなく、『近代芸術』著者として、ジャーナリズムや国立美術館で美術の権威として機能し、海外の美術や若い美術家の仕事を論じていく。彼は戦後にふたたび、西洋美術に日本美術の指南役をみる戦前のモダニズムの立場に回帰したのだった。彼は戦後において、自分を含め日本の美術家たちの戦前、戦中の仕事を論評することは殆んどない。(福沢一郎の戦後の個展評などは実に無残である。)彼の戦後の論評の殆んどが当時の現在生み出された美術であり、本格的な作家論、作品論は全て欧米の美術家についてのものである。
 そういう瀧口を、戦後に登場した若い批評家たちはどう見たのだろうか。1953〜57年に発行された美術批評誌『美術批評』とその後の『みずえ』において、つごう8、9回にわたり、戦後に登場した主要な若手の美術批評家と詩人たちが、フランスのシュールリアリズムのさまざまの面を論じ、討議している。それはシュールリアリズムについてこれほど入念に論じられるのは今後ないであろうと思えるほどである。
 シュールリアリズムは日本にとってどういうものであったのか。それは日本の戦前・戦中までの最後の前衛美術運動であり、また、戦後の前衛的美術のスタートに多大な影響を与えた方法であり、理念であった。しかし、そのようなシュールリアリズムについて、戦後の美術批評家や詩人たちはフランスのシュールリアリズムについてそれほど丁寧に多様な面にわたって論じながら、日本のシュールリアリズムについて殆んど論じていないし、まして瀧口の戦中と戦後のあり方などには全く触れていない。(瀧口がたまに討議に参加するのではあるが。)このことからも、彼らにとって戦中の自国の美術の動向とそれを背負った戦後美術の問題はタブーであるか、まったく彼らの関心の外であることがわかる。
 また、シュールリアリズム研究のなかで、批評家たちは1957年に日本に招来され、大きな影響を与えたフランスのアンフォルメル運動についても熱心に討議している。そこでは、アンフォルメルはシュールリアリズムの自動記述の延長線上の新しい顕著な美術動向として把握されている。シュールリアリズムは自動記述ばかりでなく、当時のフランス・ブルジョアの通念や価値観に対する挑戦や拒否、また反国家、反民族、反家庭、コミュニズムソ連への積極的アプローチなど政治的、社会的立場を鮮明にしていたのだが、そういうシュールリアリズムの側面は捨象されていた。そしてシュールリアリズムはアンフォルメルへの発展的解消としてとらえられた。そこは、アメリカのアクション・ペインティングや抽象表現主義の造形主義(フォルマリズム)と同じ地平なのであった。そのようなシュールリアリズムをめぐる彼らの精細な討議は、戦後の美術批評がどのような性格をもって出発したのかを示すのであった。戦後の美術批評にとって、戦争も、敗戦も、混沌の戦後社会もなかったことなのであった。
 瀧口修造については、戦争期の二重転向も問題となるが、それ以上に戦後の活動が問題なのだと考える。それはどういう問題であったのか。それは戦後において、彼が批評家・詩人として日本の国民大衆と一体化して実行した戦争期の活動の問題を不問にして、『近代芸術』の遺産をもつ西洋美術のベストな理解者・解説者として美術界の権威という位置を受容し、それによって、欧米文化をまるごと崇拝する戦後の社会・文化状況に見合った、過去を問わない美術批評家の申しぶんない先例となったことにある。つまり、瀧口が自他の過去を問わなかったように、後に続く批評家や美術家たちが瀧口の過去の仕事を検証しなかったことによって、自国の美術の歴史的展開を見まいとする日本の戦後の美術批評の長く、強固な伝統が出来上がったのである。つまり、瀧口は過去を問わないという日本美術批評史の元祖となったのである。


■では、このような批判的考察で、批評家としての瀧口の問題は終わったのだろうか


 いや、そうではない。瀧口修造の戦後のあり方を批判的に考えるときの難しさは、戦後の現在的な美術と欧米の過去現在の美術を論じるだけである彼の批評や評論が、明らかに扱う対象において限界をもつものであるが、彼の評文それ自体は、対象に即する限り、美しく、内容的にもよく出来ているのである。このことは何を意味するのか。それは批評も思想ぬきで成り立つ、ということなのだ。これは重たい真実であると思う。だが、それが批評の全てとはいえまい。その種の批評がどんなに長期支配的であろうと、そのような批評もありうるというだけのことなのであって、その種の批評に、批評が時代や社会との関係で担わされた課題があるとは思えない。困難だが、重要な批評のあり方というものがあるとおもうのだ。それは、芸術を美として見るとともに、必要に応じて、過去や歴史の暗部を問えるような、また芸術を社会や時代との関係のうちに見ることのできるような批評であり、そのような批評の立場を築くのが大事なのだと考えるのである。わたしはそのような批評の立場をとっていこうと考えている。これはわたしの現時点における決意表明でもある。
                      (2007.7.27.)

 瀧口修造を「批評も思想ぬきで成り立つ」と言った門田さんの言葉は秀逸だ。この論文は大変重要な瀧口批判であると思う。
 このレジュメには十分には触れられていないが、講演では門田さんは、瀧口はシュールレアリズムの政治性については取り上げることなく、オートマティスム(自動記述)を重視し、戦後のアンフォルメルシュールレアリズムのオートマティスムの延長として捕らえている。さらにそれはアクションペインティングや抽象表現主義へ続いていると見る。
 瀧口は自動記述の詩作をしていたが、門田さんはオートマティスムは思想抜きの方法だと厳しい。一方戦時中の瀧口の戦争詩は本格的なものだったと言う。瀧口は言葉の物質化と言った。それは門田さんによれば言葉から概念や内容を取ることにほかならない。そう言う意味では瀧口の方法は一貫していると言えるだろう。
 ギャラリイKでのこの講演の聴衆は30〜40人程度だった。あまりにもったいないと思ったのでここに紹介する次第だ。門田さんの本論の完成を希望するものである。