田中未知「寺山修司と生きて」(新書館)を読んで

寺山修司と生きて
 田中未知「寺山修司と生きて」(新書館)を読んだ。数多ある寺山修司論の中でもこれは白眉だ。私は数冊の寺山修司論を読んでいるに過ぎないが、仮にこれ1冊しか読んでなくてもそのことは断言できる。
 著者の田中未知は20歳のとき寺山に会った。その時寺山は30歳だった。田中は結成したばかりの天井桟敷に入団し、すぐ寺山の秘書になった。その頃寺山は結婚相手の九条映子と別居していた。田中は秘書から寺山の身の回りのこと、劇団の運営、劇団の照明係、寺山の同居人と丸ごと寺山に関わった生き方をした。寺山が亡くなるまで16年半も。寺山修司の一番身近な人だった。
 本書は6つの章から構成され、第1章「他者を映し出す鏡」、第2章「天井桟敷の現場から」、第3章「母地獄」、第4章「病気を生きる」、第5章「最後の映画撮影」、第6章「寺山修司の死」となっている。
 第1章は寺山の俳句や短歌が剽窃だと言われていることへの反論だ。

 私は最近刊行された寺山修司の評伝、長尾三郎「虚構地獄 寺山修司」、田澤拓也「虚人 寺山修司伝」、杉山正樹寺山修司・遊戯の人」などに対する苛立ちを書かずにはいられない。著者たちは同じように、半世紀を経た現在においてさえも石を投げ、寺山修司を傷つけ壊そうとしているとしか思えないからである。
 彼らは、寺山の短歌を、
一、現代俳句からの模倣があること、
二、自作の俳句から短歌へと改作していること、また、昔発表した作品に手を加え何度も発表しなおしていること、
三、歌われた事象はそのまま作者の実体験でなければならないはずなのに、寺山は嘘ばかりついていること、
の三点において、批判し、非難している。

 三はともかく、一と二の批判は妥当なのではないか。

 寺山に関する多くの本に、「鬼の首をとったように」必ず引用される短歌がある。草田男の俳句と並べると寺山の短歌が剽窃であることが分かるというのである。

 向日葵の下に饒舌高きかな人を訪わずば自己なき男   修司
 人を訪はずば自己なき男月見草           草田男

 田中未知はこれは類想だという。しかしこれは普通は許されない。しかもこのような短歌が1首2首ではなく相当数あるのだ。偶然ではなく確信犯と言うべきだろう。寺山が非凡な才能を持った作家だと誰もが認めるからこそ、いわば許されているのだ。凡庸な作家ならとうに追放されている。
 第2章「天井桟敷の現場から」で劇団の歴史が内側から語られる。
 圧巻は第3章「母地獄」だ。これは寺山修司の母「寺山はつ論」と言ってもいい。この章だけで全体の1/4を占めている。わがままで残酷で利己的で悪意の塊で強欲で、まだ他に何と言ったらいいだろう。彼女に寺山自身も田中未知も周囲の者皆がかき回される。田中は書いていないが、杉山正樹の前著によれば、寺山はつは戦後アメリカ軍人のオンリー(妾のこと)になって、寺山を彼の叔父に預けて九州へ行っていた。

 寺山はつが私に言ったことがある。
 「私が修ちゃんを置いて九州に行ったのは、修ちゃんの書いたラブレターを見つけたからだ」というのだ。「このまま放っておいたら不良になってしまう、そう思って私は修ちゃんをひとりにした」のだと。
 私ははつの性格を知っていたから黙って聞いていたが、まともに聞ける話ではない。ラブレターを書いただけで子供が不良になると、どこの親が決めつけるだろう? だいたい、ひとりにしたほうが不良になるではないか?
(中略)
 寺山の吐いた一言。「あの人はこのぼくを鋏で殺そうとした人ですからね」

 田中は寺山はつのリュウマチの薬を買いに行ってほしいと言われ、いつ行ったらいいかを問い合わせるために朝の十時頃はつに電話をかけると、「バカヤロー!」ガチャン! 寺山に報告すると、「眠っていたからでしょう、午後かけてみて」彼は驚くこともなく、そう言った。
 天井桟敷の劇場ができたとき1階にはつが喫茶店を開いた。しかしはつの性格から従業員が長続きしない。誰もが3日〜3か月で辞めていったという。
 身勝手で強欲で自己中心的なエピソードが繰り返し語られている。「母地獄」のタイトルが少しもオーバーではない。
 第4〜6章は寺山の病気と晩年の生活が語られる。寺山は19歳から腎臓の病気を抱え最後まで健康な状態にはいたらなかった。病気を抱えながら仕事をし、それを田中が支える生活を続ける。劇団の仕事は共同作業なので体調が悪くても一人休むことができない。しかもしばしば海外公演に出かけていく。天井桟敷の芝居は日本国内よりも海外でのほうが評価が高く、海外で何度も大きな賞を受賞している。しかし体調はますます悪くなっていく。そして肝硬変が発見される。
 何人かの医者にかかったあげく谷川俊太郎から従兄の庭瀬康二という医者を紹介される。肝硬変は徐々に衰弱していく病気だという。しかし寺山の容態は庭瀬医師の処置後急変し、入院2週間足らずで亡くなってしまう。後日庭瀬医師と谷川俊太郎、九条映子の3人の座談会で庭瀬がこう発言する。「死因は肝硬変ではなく急性腹膜炎による敗血症だった。それを見抜けなかったのは『劇的な誤診』だった」しかし入院していた阿佐ヶ谷の河北病院長は「脱水症状のショック症状から敗血症を起こしたのでしょう」と言っていた。田中は「自分の考えてきたことをここには書くまい」と書いている。寺山の症状が急変したときの庭瀬の処置が間違っていたのだ。誤診などという生やさしいものではなかった。寺山は本当は庭瀬に殺されたのだという田中の悔しい想いが伝わってくる。
 本書は今年の5月4日寺山の祥月命日に発行されている。田中未知は寺山の死後雑事を片づけて日本を離れヨーロッパで暮らしていた。この本は寺山の死後20年以上を経て書かれたのだ。それなのに著者は寺山が最近亡くなったかのように生々しく描いている。田中未知の寺山に対する深い思いが読んでいて切々と伝わってくる。寺山を最も深く愛したのが田中未知であることを何人も疑わないだろう。ここに寺山修司の作品論を期待するのは無い物ねだりだが、寺山修司とはどんな人間であったかが愛情をもって生き生きと明確に語られている。寺山修司論として白眉であると再度記しておきたい。


 私は寺山修司の良い読者ではなかったし、芝居は「奴卑訓」しか見ていないと思う。映画は「草迷宮」と羽仁進に協力して脚本を書いた「初恋・地獄篇」を見ただけだ。一言で言って寺山の芝居はスペクタクル的だと言っていいだろう。台本や台詞は重要ではなかった。だから海外で理解されやすかったのだろう。思想性は稀薄だったと思う。思想性が稀薄だから駄目だなどと言うつもりはない。そういう性格の芝居だったと言っているにだけだ。寺山の映画「草迷宮」に対してはブニュエルを薄めたという印象を持ったのだった。
 私は良い読者ではなかったが、寺山の俳句も短歌もすばらしい作品であることは言うを待たない。天才歌人だった。
 田中未知さんとは一度電話で話したことがある。彼女がまだ23歳のときだった。そのことは以前書いたことがある。id:mmpolo:20070606

 杉山正樹寺山修司・遊戯の人」もかつてその一部を引用したことがある。id:mmpolo:20070308