アラン・ドロン、下層階級の美男

男たちへ―フツウの男をフツウでない男にするための54章 (文春文庫)
 塩野七生に「男たちへ」(文春文庫)というエッセイがある。副題を「フツウの男をフツウでない男にするための54章」とある。以前資生堂のPR誌「花椿」に連載したものだ。代表作「ローマ人の物語」全15巻が昨年完結し高い評価を得ている。ところがこの「男たちへ」がつまらなかった。ただ1章を除いて。
 面白かった1章は「第30章 食べ方について」と題され、テーブルマナーに関するもの。アラン・ドロンが取り上げられている。

 あるときレナウンから、広報パンフレット用かなにかのために、インタビューを申しこまれた。私はたわむれに、ダーバンの宣伝に出ているアラン・ドロンのコマーシャル・フィルムを全部見せてくれるなら引き受けてもいいと答えた。一つ二つテレビで見て、いいなと思っていたのだ。そうしたらレナウン側は真に受けて、8年間につくった全部を見られるよう、電通の映写室を準備してくれた。
 それで見たのです。いかにコマーシャル・フィルムといったって、8年分となると大変な量になる。それを全部、ぶっとうしで見たのである。
 見終わった後で感想を聞かれ、私にはひとことしか言えなかった。
 「ヨーロッパに戻りたくなったわ」
 アラン・ドロンは私の好きな俳優ではない。男としても、好きなタイプには入らない。鼻から下が卑しいのである。
 それなのに、このコマーシャル・フィルムのアラン・ドロンはよかった。彼が主演したどんな映画よりも、素敵だった。
 ヨーロッパが、漂っていたのである。フランスではない。「ヨーロッパ」を、彼は体現していた。
 私は大変に感心して、同席していた制作者の古川英昭氏に、この私の想いを言わずにはいられなかった。一度会ったくらいではめったに名を覚えない私が、いまだに彼の名は忘れないのだから、あのときはほんとうに感嘆したのである。仏文出身という、私と同年代のこの電通マンに、なぜあれほども鋭く深く、ヨーロッパ的なるものを理解できたのかが不思議だった。
 それでも、ひとつだけ気にかかったところがあったので、それも言った。
 「あの中の一編に、食事をしているシーンがありますね。あれだけはちょっと、感心できませんでした」
 古川氏は、待っていたとばかりに答えた。
 「あのシーンは、何度となくやり直したんですよ。でも結局、うまくいかなかった」
 アラン・ドロンは美男である。だが、あの美しさは、下層階級の男のものである。気品とか品格とかいうものとは無縁の、美男なのだ。魅力は、たしかにある。新人発掘では有名なイタリアの映画監督ラトゥアーダに言わせれば、有望な新人を見つける場合の眼のつけどころは、その新人の眼なのだという。眼がよければ、スターになる可能性も大ということなのだろう。この尺度に従えば、アラン・ドロンは、スターになること必定の眼の持ち主だと、私も思う。しかし、なぜかかもし出す雰囲気が卑しい。だからこそ、下層の男を演じたときの彼は見事なのだろう。「太陽がいっぱい」のアラン・ドロンは傑作だった。
 ところが、古川氏制作のアラン・ドロンの食事のシーンは、相当に豪華な家の食堂で食べるシーンだった。それも、一人ではない。何人かの人との会食である。ここで、アラン・ドロンのボロが出てしまったのだ。
 テーブルマナーがまちがっていたわけではない。椅子にかけた背もまっすぐ伸びていたし、食卓にひじをついていたわけでもなかった。ナイフもフォークもスプーンも、使い方に誤りがあったわけではない。ガチャガチャと、下品な音をたてて使ってもいなかった。葡萄酒のグラスにくちびるをふれる前に、ナプキンで口許をふくことだって知っていた。口の中を食物でいっぱいにしたままでおしゃべりに熱中するという、許しがたい行為をしたわけでもない。
 つまりアラン・ドロンは、食卓のマナーというならば、なにひとつまちがいを犯さなかったのである。それでいて、印象は不自然だった。なぜかと考えた末、私はこんな結論に達した。
 彼は、いわゆるテーブルマナーとされることを、あまりにもきちんと守りすぎたのだ。守るのは当たり前なのだが、それがきちんとしすぎだったのである。なにか、急に教えられたことをすぐさま実行するようなところが、彼のマナーにはあった。成りあがり者が、教則本どおりに懸命に上品に振舞っているようで、見ているほうが息がつまってしまったのである。犬のまねを懸命にする狼は、犬でもなければ狼でもない。飾りたてられた食卓にすわるアラン・ドロンは、なにものでもなくなっていたのである。なにものでもない者が、魅力をもてるはずはない。あのシーンでのアラン・ドロンには、卑しい魅力さえなくなっていたのである。
 (中略)
 私だったら、食事の場面そのものを、ガラリと変えたであろう。食事の場面というアイデア自体は正しいのだから、豪華な食堂ではなく、居酒屋程度の食いもの屋の卓を囲ませるほうがよかったのではないか。
 それならば、アラン・ドロンアラン・ドロンでいられたし、他の出演者たちも、彼に引きずられる危険はなかったのである。
 しかし、ここで、これがコマーシャル・フィルムであるということを、無視できなくなったのであろう。私は知らないが、ダーバンの紳士服は高級なのだろう。鋭敏な古川氏だから完全にわかっていたろうが、かといって、食いもの屋の卓を囲むのでは、都合が悪かったにちがいない。

 長い引用になってしまったが、このエピソードはジョン・レノンオノ・ヨーコのことを思い出させる。そのことについては、また。