嵐山光三郎「悪党芭蕉」を読んで、しかし蛙は飛びこむ

悪党芭蕉
 嵐山光三郎「悪党芭蕉」(新潮社)に「古池や蛙飛びこむ水の音」について、池の側で長時間待っていたが、蛙はついに一度も池に飛びこまなかった。這うように水中に入っていった。だからこの句は写生ではないのだとある。

 ところで、「蛙が水に飛び込む音」を聴いた人がいるだろうか。
 この句が詠まれたのは深川であるから、私はたびたび、芭蕉庵を訪れ、隅田川小名木川沿いを歩いて、蛙をさがした。清澄庭園には「古池や……」の句碑が立ち、池には蛙がいる。春の一日を清澄庭園ですごし、蛙が飛び込む音を聴こうとしたが成功しなかった。
(中略)
 蛙はいるのに飛び込む音はしない。蛙は池の上から音を立てて飛び込まない。池の端より這うように水中に入っていく。
 蛙が池に飛び込むのは、ヘビなどの天敵や人間に襲われそうになったときだけである。絶体絶命のときだけ、ジャンプして水中に飛ぶのである。それも音をたてずにするりと水中にもぐりこむ。
 ということは、芭蕉が聴いた音は幻聴ではなかろうか。あるいは聴きもしなかったのに、観念として「飛び込む音」を創作してしまった。俳句で世界的に有名な「古池や……」は、写生ではなく、フィクションであったことに気がついた。
 多くの人が「蛙が飛び込む音を聴いた」と錯覚しているのは、まず、芭蕉の句が先入観として入っているためと思われる。それほどに蛙の句は、日本人の頭にしみこんでしまった。事実よりも虚構が先行した。それを芥川は「芭蕉は大山師である」と直感したのである。
 芭蕉は観念が先行する人で、旅をしても風景などはさして見ていない。芭蕉の頭のなかにある杜甫西行などの詩の風景を、現場に見たてるのである。「蛙飛びこむ水の音」は、芭蕉が自分で見つけたオリジナルのフィクションなのである。

 ところが蛙は飛び込むのである。子供の頃田んぼのあぜ道を歩いていくと、あぜ道にいた蛙が音を立てて次々に田んぼへ飛び込んでいった。たしかに何もなければわざわざ飛び込まなくても、するっと這って入ればいいが、危険が近づけば飛び込むのをためらわないだろう。
 そう考えたとき、芭蕉は古池の傍らに佇んでいたのではなく、古池の回りを巡っていたか、あるいは古池に近づいていったと考えるべきだろう。そこからはどんな考察が生まれるか?


 「悪党芭蕉」は「小説新潮」に連載していたもので、そのせいか繰り返しが多く、まとまりも悪い。文章もひどく読みにくい。ただ俳句に対する理解力が非凡なので読み通すことができた。独断的なところもずいぶん目立ったが。