ギャラリー汲美の磯良卓司さん追悼

 東京日本橋のギャラリー汲美のオーナー磯良卓司さんが亡くなった。5月15日だった。風邪だったかの高熱を下げるために適量を越えて飲んだ解熱剤による心臓発作のようだ。磯良さんは酒の飲み過ぎで肝臓をこわし、昨年末2か月ほど入院していた。もう酒は1滴も飲まないよう医者から止められていた。過量の解熱剤を肝臓が代謝できなかったのかもしれない。享年56歳。
 1950年東京四ツ谷に生まれ一橋大学経済学部を卒業し、会社員や教師をする傍ら現代美術のコレクションをはじめ、1990年から東京東銀座の歌舞伎座近くにギャラリー銀座汲美をオープンした。名前の汲美はよく通った西新宿の杏美画廊に似せたとも、好きな画家菅井汲の1字をもらったとも言っていた。のちに銀座三越近くのビルの2階に移り、そこで長く画廊を経営していた。抽象画を好み、主な取扱画家は、上野憲男、横田海、森本秀樹、早川重章等々だった。
 数年前、京橋の広いスペースに移転し、この時から名前もギャラリー汲美として「銀座」の文字を外した。このビルが取り壊しになり、3年ほど前に現在の日本橋に移った。
 オールマイティの磯良さんは自分でも絵を描いて個展をし、とうてい実現不可能な巨大なインスタレーションの企画を立て、詩を書き、俳句を作り、映画まで完成させた。その映画は製作・脚本・演出を担当した。
 何本か作った映画の最後の作品が1時間半のビデオの大作で、「gallery ギャラリー」と題された。役者はプロを使い、撮影と編集を倉嶋正彦が担当した。製作費も数百万円という本格的なものだ。汲美の他に京橋の映画美学校の試写室等で有料で公開した。
 ストーリーは、画廊を経営する父親が亡くなり、病気の母親に代わって小学生の息子が画廊を経営するというもの。小学生の画廊主ながら個展やグループ展を企画し、画家を指導し、売掛金を回収に行く。病臥していた母親は、生前の父親が企画していたグループ展をぜひ実現してほしいと切望し、それを息子に伝えて亡くなる。
 孤児となった小学生は画家たちの協力を得て、その企画展を実現させる。企画展のオープニングパーティーが終わり客たちが帰ったギャラリーに突然両親の幽霊が現れて、息子を抱きしめる。よくやったねと。やがて時間がきたからと両親は消えてゆく。
 映画が終わって横にいた磯良さんから感想を求められ、良かったところを指摘した後で、最後の両親の幽霊はベタでしたねと言うと、あれが僕の描きたかったことなんです。そして少し落ち込んだ。
 磯良さんは子供の頃父親を亡くしているという。お母さんも数年前亡くしていた。この映画は磯良さん自身を描いたのだった。自分の人生を両親から肯定してもらいたかったんだろう。
 私の手許には磯良さんからいただいた詩や俳句の作品集がある。島達の名前で発表した詩集「聖夜ーアウシュビッツ 1940ー45」、「花集(かしゅう)ー即興詩 2000年3月19日」、「黙示ーヒロシマナガサキ・」、島達人の名前で発表した句集「群肝(むらぎも)」だ。
 磯良さんの文学作品はイメージが鮮やかだったけれども言葉が生硬なのが惜しかった。本人の人柄とは少し異なっている。もっと柔軟な人だったと思う。
 磯良さんをひと言で言えばやはりまぎれもなくギャラリストだ。抽象絵画に関する理解力は群を抜いていた。理解力、企画力、販売力が、優れたギャラリストの条件だとすれば、磯良さんは何よりも優れたギャラリストだった。
 磯良卓司さん、逝くのが早すぎた。ギャラリー汲美はこれから「新しい空間」へ向かって第2期が始まるところだった。正に大きな飛躍の飛び板に立っていたのに。
 汲美が扱った多くの画家たちは、これからもその経歴にギャラリー汲美での個展と書き込むだろう。汲美は閉廊するが画家たちの経歴と記憶に残っていく。磯良さん、さようなら。お世話になりました。あなたのことを忘れることはないでしょう。


 6月10日、表参道の南青山コレッツィオーネでお別れ会が開かれた。200〜300人が参加した。義理で参加した人はいなかったのではないか。皆が深く悲しんでいた。喪主である妹さんの草野裕子さんの挨拶「好きな仕事にも恵まれ、いつも賑やかに多くの方々に囲まれた幸せな一生であったと存じます。」はそのとおりだっただろう。理想の女性はオードリー・ヘップバーンだったとは今日誰かに教えてもらった。
 会が始まるとき強い雨だったのが、終わって会場を出るとまぶしいほど晴れていた。磯良さんと別れたのは辛く悲しいことだったが、お別れ会にこんなに大勢集まったのは、大勢の惜別を受けたのは、磯良さんの人柄だったと思うと少しだけ慰められた。