奥野良之助「金沢城のヒキガエル」の進化論批判

 今西錦司を読んで以来ダーウィンの進化論に疑問を持っていた。いまは総合説と言って突然変異と適応で説明されている。今西は競合でなく「棲み分け」を提案し、賢い蟻と愚かな蟻がいても踏みつぶされるときは一緒で、どんな個体が残っても種が存続するようにできていると言った。
 しかし今西派は分が悪い。久しぶりにダーウィンを批判する論文を読んだ。奥野良之助金沢城ヒキガエル」(どうぶつ社)だ。ヒキガエルの生態を書いた本なのにきわめて面白いのは、文章がうまいからだ。
金沢城のヒキガエル 競争なき社会に生きる (平凡社ライブラリー)

 動物の個体数の変動とその原因を調べている個体群生態学で、かつてこんな学説が流行したことがある。動物には、自己の個体数を増えすぎないように調節する機構を持っているものがある。たとえば、トラやクマは大きななわばりを持ち、その地域で生きて行くことのできる個体数を制限している。鳥の繁殖期のなわばりも無闇に個体数が増えないようにする機構である。シカはしかし、捕食者に食べてもらうことによって個体数を調節しているので、自己規制はできない。アメリカのカイバブ高原で、捕食者であるオオカミやピューマを駆除したところ、シカが無制限に増え始め、餌である植物を食いつくし大激減したという、有名な報告がある。
(中略)
 私は、しかし、この「個体数調節機構」という考えそのものが嫌いなのである。そんなものは、開発途上国の人口増加に怯えた先進国の学者が考え出したものであり、動物がそんな面倒なことをしているとは思えない。なわばりをつくって一匹もしくはつがいが広い面積を占有すれば、あぶれたものは外へ出ていくだろう。すると、その種の分布がより広くなっていく可能性がある。シカもまた、オオカミがいなくなれば喜んで数を増やし、どんどん外へ出ていって分布を広げればよいのである。どこにも出て行けない閉鎖された場所、たとえば小さな島などでしか、大発生・大激減は起こらない。
 その上、大激減したからといって、絶滅するわけではない。このことはあまり強調されていないが、資料を見ると、大激減後のシカはだいたい大発生以前の個体数にもどるだけである。植生が回復してくればまた彼らは数を増やしにかかるだろう。ヒキガエルだって増えすぎたら、自分で自分の子供を間引くといった手のこんだことをせずとも、どんどん分布を広げていけばいいのである。

 これに関連する「セントキルダ島の羊」(id:mmpolo:20061203)を紹介したことがある。小さな島での羊の大激減と回復の記録だ。


 次いでいよいよ奥野良之助ダーウィン批判の骨頂。

 私も長い間自然の生き物を、といっても魚と蛙だけだが、眺めてきた。しかし、ダーウィンほどの眼力がなかったせいか、彼らがそんなに激しい生存競争をやっているようには見えなかった。今まさに時と所を得て大いに発展しつつある生物ならそうかもしれない。たとえば、中生代三畳紀からジュラ紀にかけての恐竜だとか、その恐竜が自滅し、広く空いてしまった場所を埋めるべく急速に発展した新生代初めの哺乳類だとか、そういった生き物が激烈な競争を行ない、勝ち抜くことによって、急速に進化してきたことは考えられる。だが、恐竜はすでに滅び、哺乳類もまた、すでに発展の峠を越え次第に衰亡しつつある。両生類にいたっては、その盛期(古生代二畳記)からすでに三億年近い日々が経っている。今さらあせって進化しようなどとはしていないだろう。むしろ今の地位を保全する、つまりできるだけ長く生き延びることこそ重要なのであって、そういう生物にとっては、競争はかえって害になるかも知れないのである。
 ところで、激烈な生存競争によって彼らが得たものは何だったのだろうか。
 中生代中期の恐竜、新生代初期の哺乳類は、自然の中のさまざまな生活の「場所」に、大きさや形を変え適応していった。ただしその時、恐竜あるいは哺乳類としての基本的体制は変えていない。同じ身体のしくみを維持したまま、首を長くするとか尻尾を短くするとか、ごく表面的な形を変えただけなのである。生物学的にはこれを特殊化という。そして、特殊化の行きつく果てには、ユーカリの葉しか食べないコアラだとか、この世のものとは思えぬ尾羽を持つクジャクだとか、これ以上変わりようのない袋小路が待っている。「進」化とか「進」歩という言葉とは全然そぐわない。
 私たちの感覚での進化、進歩といえば、たとえば魚が両生類になり、両生類が爬虫類になり、爬虫類が哺乳類になるといった、基本的体制そのもの、身体のしくみそのものの変革をともなう変化であろう。このような基本的体制の向上をともなう進化は、大進化と呼ばれているが、その機構はまだわかっていない。しかし、激烈な生存競争による特殊化という、ダーウィン的進化とは異質なものであることは確かなようである。つまりそれは競争による進化ではない。
 生き物は、自分のおかれた条件によって生き方をいろいろと変えていく。発展のチャンスには壮大な種分化・特殊化によって種数を増やし発展する。その時には激烈な競争も行なわれるのであろう。だが、すべての生活場所を埋めつくせば、適応し特殊化したたくさんの種が、それぞれ生き残りを模索するようになる。だからこそ、古生代以来の古いタイプの生き物がすべて滅びたわけではなく、今でも数多く生き残っているのである。ここでは競争はもはや主題ではない。
 あらゆる時代、あらゆる場所、あらゆる生物において、きびしい競争原理が働いているとは、私には思えない。競争に巻き込まれずのんびりと生き延びている生き物はヒキガエルにとどまらないと、私は思っている。

 この他、河野和男「カブトムシと進化論」(新思索社)がダーウィン批判の白眉だ。いずれこれについても書いてみたい。