少し精神が錯乱した

 昔、一時不思議な精神状態に陥った。現実感が失われ不安に囚われた。当時そのことを簡単に記録しておいた。それが次の文章だ。


 正方形、その一辺を半径として描かれた正方形の中の弧、その弧が交わっている正方形の一つの角より出発し、弧の上を時計の針と反対回りの方向に正方形の他の角に向かうのだが、途中まで行くとある抗しがたい力が働いてきて弧から外れてしまう。再びやり直すのだがやはり弧から外れていってしまう。この時この失敗は苦痛を伴う。何度も試みるが途中まで行くと外れていってしまうのだ。焦りが急カーブを描いて上昇する。また試みる。三分の一の地点まではうまくいく。この先だ。外れてしまいそうだ。外れる。苦しい。不意に何かが挿入されてきて、それと共に今までのイメージが消え去った。
 夢だった。寝汗で下着が体にはりついている。その不快感を感じきる前に何か異常なことが起こっているのに気づいた。ぼくは立ち上がり電灯をつける。時計を見るとまだ午前四時だった。体の感覚がおかしい。ぼくは布団の上に座りこんだ。視覚も異常を訴えていた。狭い三畳の部屋の壁が遠くへ引き下がっていた。ぼくはまぶたの上から目をこすった。電灯を見つめた時、電灯も小さく不安を帯びた光りを放っていた。眠気は消えてゆき、今や覚醒したぼくにそれは確実に作用してしてきた。周囲のものが何の質量もないように、実在感がなかった。それらは初対面のもののようによそよそしかった。そして部屋は違和感に満ちていた。五感が麻痺しているように自分の体の重みが感じられなかった。無重力状態で空中に浮かんでいるようだった。ぼくはあわてて腕を振り、その時のみいくぶん腕の重みを感じることができた。ついで両腕で自分の体を抱きしめた。脇腹へ触れた指先に力をこめた。指先と指先が圧している脇腹にのみ体が感じられた。口中も異常を感じていた。舌を上あごに思いきり押しつけた。そうすることによりようやく舌と上あごを感じた。両腕で体を抱きしめ舌を上あごに押しつけながら、ぼくはようやく少し落ちついた。
 それにしても、存在のこの非現実感は何だろう。壁とか本棚とか電灯とか、その他こまごましたものに実在感がなかった。それらは映画のスクリーンのように空虚だった。
 汗もほぼ乾いていた。熱はないようだった。しかし事態は全く変わらなかった。もう完全に醒めていた。自分が狂い始めているのかと恐れた。静かだった。恐怖が大きくなっていった。眠り込んでしまいたいと思ったが、眠りに落ちるやいなや再び悪夢にうなされることを思うとそれもできなかった。以前風邪をひいて発熱した時などに、再び眠りにつくと必ず中断された悪夢の続きを見てうなされたのだった。だが、今度は熱もないし目覚めた後もなお異常が続くということから明らかに未経験のことだった。
 まだ二時間あまり眠っただけだった。昨日は四十時間ほど一睡もしていなかった。その間に二十四時間ぶっつずけに働いていた。それも肉体労働を。疲労はあった。それが原因だろうか。だが、なぜ……。
 ぼくは睡眠薬が残っていることを思い出した。数日前三錠飲んだだけで数時間の記憶喪失になった西ドイツ製のバラミンという薬で、ハイミナールに比べてかなり強烈なやつだ。三十錠飲めば死ねると友人は言った。効能書には確か布団に入ってから一錠を服用のことと書かれていた。それが四錠だけ残っていたが使ってしまいたくなかった。これきりもう入手できる当てはなかった。一錠だけ飲んだ。落ちつかず数分ほどたってもう一錠飲んだ。たしかこの薬は鬱病治療用の薬のはずだ。このことを確かめたいと思ったが、効能書は薬を回してくれた友人のところに行かなければなかった。落ち着け落ち着けと声に出して言った。しばらくすると薬が効き始めたのが分かった。前回に比べかなり効き目が早いことに気づく余裕は持たなかった。横になって毛布をかぶっている内に眠りに落ちていた。
 十時間の眠りの後、二度目の睡眠中の夢を一つも覚えていなかった。夕方目覚めた時、再び見慣れた部屋を見出したのだった。体も重さを取り戻していた。昨夜のことはすでに過ぎ去っていた。軽い精神錯乱だったのだろうか。(1970年2月記)