グレアム・グリーンの小説「情事の終り」(または「愛の終り」原題The End of the Affair)の冒頭に次のような記述がある。
話というものには、もともと始めもなければ終りもない。話し手は、経験のうちの或る瞬間を任意に択んで、そこから後ろを振り返るか、そこから先へ進むかするのである。わたしは作家を職業としているという漠然とした誇り(中略)にもとずいて「任意に択ぶ」と言ったのだが、しかし果してわたしは、あの暗い雨に濡れた1946年1月の夜、河のような土砂降りの公園を横切って身を斜めに歩いて来るヘンリ・マイルズの姿をみつけた、あの夜を、わたしの自由意思で「択ぶ」のか、それとも逆にあの夜のああした心象(イメイジ)がわたしを択んでしまったのか? (新潮文庫:田中西二郎訳)
六本木のギャラリーMoMoで開かれている「坂田祐加里展」を見た。(4月28日まで)主な作品は墨のドローイングで細い筆を使って精緻なイメージが大きな画面の隅々まで描き込まれている。テーマはヌードと花と虫などだ。女の顔はすべてスカーフで隠されていて、ヌードの匿名性を表している。花は百日紅、春蘭、ガジュマル、アマリリスなどで、それが作品の題名になっている。他に「ジャガー」と「変身」というのもある。
花がヌードに絡まり、虫がはいずり回っている。きわめてエロチックな作品だ。しかもヌードの2点には精密な女性器も描かれている。「百日紅」では葉柄や茎が女性器や肛門に差し込まれている。
グレアム・グリーンに倣って言えば、このイメージを作家が選んだのか、あるいはこれらのイメージが作家を選んだのか?
モチーフに対して構成はきわめて理知的で、それが谷口ナツコと対極的だ。情念的でありながら理知的というのが不思議だ。
ただ、女性器というのは特異な器官で、多くの男はそれを冷静に見ることができない。過剰な感情を呼び起こされてしまう。作品に対峙したとき、女性器のオーラを無視できないのだ。それが鑑賞にバイアスをかけてしまわないかと恐れる。
以前、絵画教室を主宰しているらしい中年画家の個展を見たことがあるが、画家を取り巻いておばさんたちが「まあ、先生すてき」と言っていた。作品は女性のヌードで、どうしてこんないやらしい絵を展示できるのかいぶかしく思ったことがある。
坂田の作品はそれとは逆で、女性器が描かれていながら下品ではなく、とても魅力的な作品だ。図像解釈学的にいろいろ考えることができるだろう。多くの人に見てもらいたいと思う。
ひさしぶりで良い作家に出会えた。
写真は坂田祐加里「百日紅」(C)YUKARI SAKATA 2007
ギャラリーMoMo
六本木駅すぐ近く、麻布警察の裏手
東京都港区六本木6-2-6 サンビル第3 2階
4月28日(土)まで、12:00ー19:00、日月祝日休み。
http://www.gallery-momo.com/index.html
谷口ナツコ(id:mmpolo:20061212)