中村稔「束の間の幻影」(新潮社)は副題を「銅版画家駒井哲郎の生涯」といい優れた駒井哲郎の伝記だ。よく調べて書かれていて、駒井の生涯もその業績も内部の精神もよく分かる。
私ははじめ駒井哲郎に何の興味もなかったが、勉強のためと思って本書を読んだ。読後いっぺんに駒井が好きになった。
野見山(暁治)がここに記している事実のすべてが真実に違いないと私は考えている。また、私は駒井の狂態について弁護しようとは思わない。しかも、こうした狂気に近い酩酊は駒井の内部に生じていた、おそらくパリ滞在中に限らず、その生涯を通じて駒井がその内部に抱えていた、精神の惨劇というべきものといくぶんは関係があるのではないか、と感じている。
「ここに記している事実」とは、
野見山の前掲の文章は次のように続いている。
「しかしそうしたこの画学生の一途さにも似合わず、どうしようもない酔っぱらいだという愚痴を私は方々から聞かされはじめた。駒井のために自分のアトリエの下の階に部屋を見つけてくれていた版画家は私を見るなりネチネチした口調で駒井の悪口ばかり言うようになった。深夜、タクシーから降りて運ちゃんをぶんなぐったとか、エレベーターの中でおしっこをして寝込んじまったとか。おれはもう世話は御免だよ、あの部屋を出てってもらう。昨夜ビストロで一緒だったという彫刻家は、あの人は乱暴だねえ、やたらと敲きこわすんだよ、と悲しい顔をした。あんたの友だちだっていうあの男いったい何? 私は顔見知りの女からきかれた。夜中にノックするからいつもの友だちだろうと思ってドアをあけたらあの男が入ってきてさ。酔っぱらいの妙に目の定まらないところが怖くて、結局、朝まで一睡もできなかったというような話だ。私は駒井と飲んだことがない。とき折りモンパルナスあたりで逢う駒井はマドモアゼルのようにしとやかだった。」
これはフランスに留学中33歳頃のエピソードだが、後年芸大教授になった時の荒れ様も常識を越えている。
野見山が私(中村稔)にこんな挿話を聞かせてくれたことがある。あるとき、芸大の人事委員会に属する教授たちの会合があり、ある学科が他の学科から貸しているポストを返せ、いや借りていない、といったことが話題になった。借りているといわれている科の教授から前夜野見山に電話があり、借りているというのは本当なのだが、貸しているといいはっている人物が嫌いだから、そのまま借りていないといいはるけれども、その人物がいなくなればけりはつけるから、そういうつもりで明日は黙って聞いていてほしい、このことは駒井にも電話して了解を得ている、ということであった。その人事委員会に駒井は泥酔してあらわれた。そして、席につくと、ポストを借りているといわれている教授にむかって、おまえは昨日、本当は借りてるんだといったじゃないか、と罵り、ポストを貸していると主張している教授にむかって、おまえがみんなから嫌われているから悪いんだよ、と罵り、おかげで人事委員会の議事は滅茶苦茶になってしまったという。駒井の酔態はじっさい目にあまるものであった。(中略)ただ、駒井のために弁解すれば、建前と本音を便宜に使い分ける、といった処世術は駒井にとって我慢ならないものであった。そういう意味で駒井はモラリストであり、潔癖であった。素面の駒井にはそうした生活上の虚偽に目を瞑っていることはできても、、いったん酩酊して抑制がきかなくなると、はてしもない罵詈譏謗となり、他を傷つけ、自らも傷ついたのであった。
1976年11月20日、舌ガンのためがんセンターの病室で家族や友人、弟子たちに囲まれて亡くなった。享年56歳だった。
本書の題名「束の間の幻影」はサンパウロ・ビエンナーレで入賞した駒井の銅版画作品(写真)の題名から採っている。幻想的な作品だ。駒井はプロコフィエフのピアノ曲の題名をもらったのだろう。駒井の好きそうな曲だ。
駒井の版画は大きさにかかわらず1枚3万円で売られていた。その内駒井は1万円をもらっていた。生前最後の個展のとき、駒井は倍に値上げしてほしいと申し入れた。画商たちが相談して1枚4万5千円に値上げした。駒井には1万5千円が支払われた。それが30年後1枚70万円から90万円の値がついている。短期間でこんなに値上がりした画家も珍しい。
(10年余で価格が100倍になった奈良美智は特別な例外だ。)