宮田毬栄「追憶の作家たち」(文春新書)には中央公論社で編集者をし、「海」の編集長も務めた宮田毬栄が親しく付き合った7人の作家たちのエピソードが紹介されている。松本清張、埴谷雄高、石川淳、大岡昇平、島尾敏雄、西条八十、日野啓三と錚々たるメンバーだ。彼女が優秀な編集者であることに加え、詩人の大木惇夫の娘であること、写真で見る限り美人であることも大きく影響しているだろう。松本清張には特に可愛がられている。
本書の中でひとつ不協和なエピソードがある。雑誌「海」編集部に属するY氏との確執だ。宮田はY氏と書いているが、これが安原顕を指すことはすぐ分かる。
島尾(敏雄)さんは「海」編集部の内情にも詳しく、私とY氏との深まる確執を心配して、一夜食事をしながら話し合う席を設けてくださったことがある。二人とも島尾さんとは親しい関係にあったからだ。新宿「中村屋」でのフランス料理のフルコースの間中、和気藹々とした空気がみちていて、島尾さんはほっとした表情で二人に「握手したらいい」と提案された。握手した瞬間、私でさえ今夜かぎり心塞がる関係が霧散するのではないかと錯覚したくらいだ。島尾さんは「ぼくのためにも仲良くしてくれなきゃ困るんだ」と満足そうだった。食後は西新宿のバー「火の子」に席を移し、私たちは夜遅くまで話し合った。
島尾さんに、「仲良くやるからさあ、ぜーんぜん、だいじょうぶ!」とくり返していたY氏は、翌日もう元通りになり、「甘い、甘い。人が好すぎるっつーの、島尾さんは!」と言いまくっていた。島尾さんのせっかくの配慮は空振りに終ったのである。
安原顕は伝説的編集者だ。雑誌「パイデイア」は竹内書店から発行されていたが、特集がおもしろかった。安原が編集長だった。この後安原は中央公論社の「海」編集部にスカウトされ、大きな活躍をしたらしい。文芸誌4誌の内「海」だけが異色で興味を引いたことを思い出す。やがて「海」が廃刊になると、伝説の第1次「マリ・クレール」編集部へ移籍する。ここで映画特集をはじめ、女性誌らしからぬ編集で話題になった。その後メタローグ社を立ちあげ、学研へ移り、そこをクビになった。フリーの編集者としてマスコミにも登場していたが2003年1月肺ガンで亡くなる。
「海」編集部当時、村松友視が同僚で、没後「ヤスケンの海」(幻冬舎文庫)で安原を追悼している。ここに紹介されている、安原が大江健三郎を激怒させた事件。安原は中央公論社在籍中本名で「レコード芸術」にコラムを書いていたが、そこに大江を罵倒する文章を発表した。
ひとくちに読書といっても、最初から書いてある内容もほぼ見当がつくし、愚書というか駄本ということを充分に知っていながら、しかもなお馬鹿にするため、嘲笑するためにあえて読むというのがある。さしずめ最近の例でいえば、現在ベストセラーになっている大江健三郎の「状況へ」と小田実の「状況から」(いずれも岩波書店刊)などはその典型的な本といえよう。
この二冊の本は、「朝日ジャーナル」と並んで、手に取るのも不快な雑誌「世界」に一年間連載されたものを単行本にまとめたらしいが、二人ともよくまあこんなチャチな雑文を単行本なんぞにまとめたものだと、まずそのずうずうしさというか破廉恥な精神に唖然とさせられた。
と、このような罵倒が延々何ページも続いている。これは本当に下品だ。大江は怒って「谷崎潤一郎賞」選考委員を辞任する。
さらに安原の没後、村上春樹の原稿が古書市場に現れ、出所が安原の遺族だったことが分かった。村上春樹の怒りの手記が週刊誌に発表されたりもした。安原は多くの作家たちの原稿を密かに私物化していて、亡くなったら古書店に売るよう家族に指示していたのだ。
私も「パイデイア」はよく読んだし、「海」「マリ・クレール」は気になる雑誌だった。安原顕編集「映画の魅惑・ジャンル別ベスト1000」(メタローグ)と、同じく安原顕編集「ジャンル別映画ベスト1000」(学研)は今でも参考資料として書棚に並べてある。たしかに才能のある編集者だった。しかし、人によってこれだけ毀誉褒貶相半ばする人物も珍しいのではないか。