堂本正樹「回想 回転扉の三島由紀夫」(文春新書)がおもしろかった。著者は劇作家・演出家で16歳のときに8歳年上の三島由紀夫と出会い、三島が亡くなるまで付き合った。
三島がは小説でも成功していたが、芝居も書いていて評判がよかった。「近代能楽集」「鹿鳴館」「サド侯爵夫人」「わが友ヒットラー」などがあり、「燈台」では演出にも挑んだ。
お愛想に作者に「演出をやりませんか」と云うのは良くあり、実際は座の実力者が整理して開幕に持って行くのだが、それでも手順は作者が付けるのが普通である。しかし三島は言葉とアクションの関係が良くわからず、動きを付けられなかった。役者は本読みまでは作者本人の「解釈」をタップリ聞かされたものの、立ち稽古以降は何の指示もなく、文字通り立ち往生だった。矢代静一も見かねて忠告したが、どうにもならず、青山杉作が動きを付け、全体を纏めたという。
やはり演出は特殊技術なのだ。誰でも簡単にできるわけではない。
アメリカの映画監督ジョン・ヒューストンは「マルタの鷹」「アフリカの女王」「天地創造」「許されざる者」などを監督している。彼の自伝「王になろうとした男 ジョン・ヒューストン」(清流出版)の第34章はたった7ページだが、演出について具体的に書かれている。
例えば、フェイドイン、フェイドアウトは目覚めと就寝に似ている。ディゾルヴは時の経過、あるいは場所の転換のいずれかを意味し、ときには複数の事柄が異なる場所で平行して起きていることを示す。いずれにしても前のシーンと後のシーンがダブルのである……それは夢が重なり現れるかのようでもあり、まぶたの裏に次々と人の顔を思い描くときのようでもある。キャメラが右から左、あるいは左から右へと首を振るパンにはふたつの用途がある。ひとつは人物をフォローするとき、もうひとつはシーンの地理的状況を伝えるときである。ひとつのものから別のものへパンをするとその二つのものの空間関係が明らかになる。空間関係が明らかにされればあとはカットで繋ぐことができる。
「回想 回転扉の三島由紀夫」に戻ると、三島と堂本正樹が同性愛関係であったことが明かされている。二人は行為の前にしばしば切腹ごっこをしていた。堂本が切腹し、三島が介錯する。ついで三島も切腹する。「三島は真剣に腹をもみ、長刀を逆手にし、左腹に突き立てる。引き回す。それから演技で息継ぎをし、刃先を引き抜いて右横にし、喉笛を掻き切る。そして、ドッと私の死骸の上に倒れこんだ。」
堂本は自分にとっては「切腹ごっこ」だったが、三島にとっては「切腹シミュレーション」になっていたと書く。
三島の死について、文学上の行き詰まりだとか、老いへの恐怖だとか、クーデターの失敗だとかいろいろ言われたが、堂本によれば被虐への強い嗜好が理由だと読めてしまう。