追悼吉田哲也ーこの寡黙な彫刻家へのオマージュ

 吉田哲也という彫刻家がいて、2005年の1月に40歳で亡くなった。私たちは若い優れた芸術家を失った。わずか10年ちょっとの活躍で。だがその短い年月で優れた作品と強い印象を残して。
 吉田哲也は抽象的な立体を作っていた。1990年銀座のギャラリーなつかでの初個展から銀座のルナミ画廊での個展、銀座のギャラリー古川、神田のときわ画廊、阿佐ヶ谷の画廊喫茶西瓜糖、京橋の藍画廊、吉祥寺のギャラリーαM、世田谷のギャラリーTAGA、銀座のギャラリーGANでの個展。またセゾン美術館での企画展「視ることのアレゴリー」と東京都現代美術館での企画展「ひそやかなラディカリズム」への参加等々。
 藍画廊の福田まさきよさんによると、吉田哲也の作品は、大きく三つの時期に分けられる。

 第一が、1990年の初個展「ギャラリーなつか」以降のトタン板の大きな作品のシリーズ。これはボリュームのある作品で、手を加えていないトタンをハンダで接合して組み合わせたもの。吉田哲也の作品の特徴である、開放的な空間が最も顕著な作品群です。
 第二は、1993年の「西瓜糖」以降の、針金、トタン、釘などを使用した小振りな作品。第一が画廊で組立てる大きな作品ならば、第二はテーブルの上で制作された小さな作品です。第二の作品は、素材を曲げたり、捻ったり、折り畳んだ、簡素でシンプルな作品群です。
 第三は、1999年「藍画廊」以降のプラスター(石膏)の作品。作品は一段と小さくなりましたが、逆に作品空間は今まで以上に広がっています。第二の時期から使用し始めた(自作)台座が、重要な要素になっています。

 吉田くんの作品は、親しみがあります。それは使用している素材が日常的なトタン、針金、釘、石膏などであり、それを「そのまま」使っているからです。一般的に彫刻で使用される「立派な素材」を用いず、日用の素材を好んで使いました。特に反芸術といったわけでもなく、日常の生活が作品のテーマだったからです。

 フォルムにもそれが表れていて、複雑で熟練を要する様に見える表現はしませんでした。シンプルな手の動きで形になったものがほとんどです。これも親しみを覚える要因です。

 それと、開放性です。作品の形状は至極端正ですが、そこには必ず「ズサン」があって、自由な空間が生まれています。意図的に隙(すき)が作られていて、それが見る者に安心感を与えます。しかし作品には締まりがあって、この辺りが吉田くんの技量の高さであり、苦心だったと思います。

 第1期の作品からはミニマル・アートのドナルド・ジャッドの影響が伺われる。好きだったのだろう。セゾン美術館の「視ることのアレゴリー」でこの初期の作品を見ることができた。
 第2期の作品群がきわめて美しい。緩やかに曲げられて両端をハンダで接着した針金の作品、薄いコの字形に折り曲げられた葉書大のブリキの作品、2枚に折り曲げて途中1カ所に皺を寄せた小さなブリキ板、1本の鉄線の端が少しだけ曲げられた作品、それらがとてつもなく美しい。どれも工芸品と異なり手仕事を刻印している。つまりブリキや針金を決してきれいに曲げないで、曲げたり伸ばしたりしたような痕跡を意図的に表している。それが彼の作品の大きな特徴なのだ。
 特に徹底した作品は3〜4センチの短い針金を2つに曲げただけのもの。「ひそやかなラディカリズム」ではひと部屋の壁面にこれが十数個取り付けられていた。最初見たとき空っぽの空間かと思ったほどだ。
 第3期の石膏の作品は私にはまだ分からない。2センチくらいの石膏の直方体を3〜4個ほど積み重ねている。小さな小さな作品だ。
 作家は大きなブリキ板の立体から始めてだんだんと作品を小さくしていく。ミニマルアートから始まって、作品に表情をつけ極小の大きさに縮んでいった。
 そして40歳で突然亡くなる。心臓発作だという。作品を小さく小さくしていって、平行して自分自身の命も小さくしていって地上から消えていったかのような。
 吉田哲也は現代において最も美しい立体作品を作ったのだ。小ささに反比例する存在感の大きい作品を作ったのだ。
 作品も寡黙だが作家も寡黙だった。展覧会のパンフレットに書いた文章も驚くほど短い。
 1993年発行のパンフレット(私家版)から。

■高さを持って立ち上がるもの(そして、それを見上げる)
■深さ(密度)のある表面
■中間的なもの(大きくもなく小さくもない/強くもなく弱くもない)
■ズサンなもの、あるいはズサンさを残したもの
4つのものを自然(日常)の中から受け取り、再構成することは彫刻のイメージに近づくことになるだろう。
彫刻の確かな力を手にしていくことになるだろう。

 1995年発行の「新世代への視点'95」(東京現代美術画廊会議発行)から。

「情景描写と、他人を書く練習をなさいな。」ー橋本治ー 
(これから作家を目指す方へのアドバイスに答えて 1994年 集英社文庫目録より)
身の回りの風景(自然)を丁寧に観察して、その中での自分の位置を絶えず確認しておく。
他人にも自分と同じように内面があることをいつも忘れずにいる。
そうすることによって、彫刻という形で実現されたものは、自分にとっても他人にとってもリアルなものになるのだと思います。
ひとりよがりでない、相手に通じる言葉になるのだと思います。

 「視ることのアレゴリー」(セゾン美術館発行、1995年)から。

朝起きて何もやる気がおこらず、とりあえずつけたテレビを、結局、深夜の放送終了まで見続けてしまった無気力な一日。
 すぐ済むと思って始めた雑用が思いがけず長引いて、それだけで疲れてしまい、やらなければならなかった肝心な事は明日にまわしてしまった意志薄弱な一日。
 そういう日々に対して、良いとか悪いとかの判断を下さず、反省もせず、ただそのままを自分の中に受け入れるという作業をきちんとしていきたいと思っています。
 そうすれば、そういう日々の中にある美しいものを見つけることができるような気がします。
 本当に美しいものは、そういう所にあるような気がして仕様がありません。

 この文章は「MOT アニュアル 1999/ひそやかなラディカリズム」(東京都現代美術館発行、1999年)にもそのまま再録されている。
 この再録という選択に、私は彼の徹底した寡黙さを見る。


 吉田哲也が第1期の大きなブリキ板の作品から第2期の小さな作品に移ったきっかけは、当時阿佐ヶ谷で画廊喫茶西瓜糖を経営していた福田まさきよさんの、西瓜糖で個展をとの呼びかけによるという。この時が吉田哲也のターニング・ポイントとなった。彼はミニマリズムから別の場所にゆっくりと移動する。作品が表情を帯びるようになる。それはもはやミニマリズムではないだろう。福田まさきよさんと倉品みき子さんのご夫妻は現在東京京橋で現代美術専門の藍画廊を経営しているが、吉田哲也の最も優れた理解者だと思う。もしこの「理解」という言葉から吉本隆明の詩「理解はいつも侮蔑の眼ざしににている」を想起するのなら、こう言い替えよう、福田・倉品ご夫妻の吉田哲也に対する姿勢は愛情なのだと。
 福田まさきよさんによる吉田哲也追悼展に関するテキストは以下で見ることができる。この記事を書くに当たっても大いに参考にさせていただいた。
 私は吉田哲也の作品が最も好きだった。作家も作品も寡黙だったが、本当に優れた作家だった。現代は饒舌なアーチスト、村上隆などが脚光を浴びている時代らしい。しかし、いずれ寡黙であっても真に優れた作家たちが評価される時が来るだろう。その時吉田哲也が表舞台に登場してくるのだ。作家は亡くなったが作品が存在する限り吉田哲也が滅びることはない。


 吉田哲也 1964年愛知県生まれ、多摩美術大学彫刻科卒業、東京芸術大学大学院彫刻専攻終了(吉田の「吉」は上が短い漢字)

吉田哲也展(2001年3月:藍画廊、第3期の作品)
http://homepage.mac.com/mfukuda2/aiga16.html

吉田哲也追悼展(2005年12月:藍画廊)
http://homepage.mac.com/mfukuda2/sekai05a/sekai05a.html
吉田哲也追悼展/テキスト(福田まさきよさんによる)
http://homepage.mac.com/mfukuda2/sekai05/sekai05.html



第1期のブリキの作品


第2期の針金の作品


第2期のブリキの作品


第2期の作品


第2期の作品


第2期の作品


第2期の作品


第3期の石膏の作品(展示風景:自作台)


第3期の石膏の作品