劇作家 清水邦夫の秘密

 好きな劇作家が三人いる。黒テント佐藤信と木冬社の清水邦夫、それにこまつ座井上ひさしだ。その清水邦夫が自分の秘密を明かしている。長い引用だが(清水邦夫ファンや研究者にとって)貴重な発言だ。


 エッセイ「わが"バイブル"」より

 ぼくは劇作をはじめてもう30年近くになるが(注:執筆当時)、いまだしょっちゅうスランプに陥り、時にはもう二度と戯曲は書けないのではないかと思い悩む。
 そんな時に、本棚からひっぱり出すのが、わが"バイブル"である。(中略)このところはチェーホフの一幕物に落ちついている。しかも三篇だけ、「熊」と「結婚申しこみ」と「白鳥の歌」の三つである。これをくりかえし読んでいるとやがて気持ちが落ちつき、戯曲を書くことの恐怖がうすらいでいく。そして十回くらい読み返すと、うそのように戯曲を書きたいという欲望が生まれてくる。まさにスランプの特効薬である。
(中略)
 さて、先の三篇にもどるが、この一幕ものには人間関係のエッセンスが大変純度の高いかたちで結晶している。「熊」は典型的な男というものがえがかれ、典型的な女というものがえがかれ、加えて男と女の関係というものがきっちり切りとられている。ぼくは実生活でも、この男女の関係のバリエーションを何十回見てきたことか。従ってへんな自慢になるが、「熊」をまったく模倣して書いても、観客にはほとんど見抜かれないのだ。
「こんどのきみの芝居のさ、あの男と女の関係、よくあるんだよな。実はね、おれの知り合いでそっくりというかなんというか……」
 こんな工合である。逆にいえば、「熊」を何度模倣しても大丈夫であり、その男と女の関係は常に新鮮であり、かつ永遠のパターンでもあるのだ。
「結婚申しこみ」。作品的にはいろいろいうことが出来ようが、ぼくなどはこれを読みかえすたびに"心ならずも悲劇に"とか"心ならずも喜劇に"とかいう人間の闘争的関係をしたたか思い知らされるのだ。「愛してるからすべて許せる」という言葉があるが、「愛しているけど許せない一点がある」というのも事実である。ぼくは読むたびに笑いころげてしまうが、ふとこの作品と同じことが一週間前に実際おこったことを想起してしまう。それくらいひんぱんにおきる人間ドラマなのである。このパターンも何度模倣しても見抜かれない。誰もが、自分のことと思ってしまうのだ。
 最後に「白鳥の歌」。これは先の二篇とちょっと違う。芝居がはねたあとの舞台に残る老残の喜劇俳優と老プロンプター。深夜この二人が、これまで好きだった芝居の名場面を〈老い〉と闘いながら次から次へと演じていく。ここでは〈虚〉と〈実〉の入れ替わりの無残が見事にとらえられている。こういった視線は、現代演劇においてきわめて有効な働きをする。なぜなら現代ではものの実相というものがますます見えにくくなってきており、それを垣間見るにはそれなりの〈仕掛け〉がどうしても必要になってくる。そのことを常に喚起させてくれる作品である。
 しかし近頃この作品についての読み方が多少違ってきた。方法論だけでなく、ここにある〈人生〉がひどくぼくをうつのだ。老優の人生、老プロンプターの人生。そして二人の関係。そこにある想い出の軽やかな時間、それを時々切り裂く二人の現実の重い時間。ぼくの書く最近の作品には、老人が多く出てくるといわれるが、それはこの作品の影響であり、それにぼくの年齢も決して無関係ではない。
 俳優に影のようにつきそうプロンプター、こういう関係は実生活でもよく見かける。ある時には自分がスポットライトを浴びる俳優であったり、ある時には入れ替わって自分が舞台の暗がりでプロンプをつける人間であったり……。そいう関係を近頃好んで書いているが、周辺の人々は「白鳥の歌」の影響だとはまだどなたも気づいていないようだ。模倣者にはこういった楽しみがあり、これがまた模倣者らしい暗い楽しみだとちょっぴり卑下したりもする。   
             (「ちくま」1987年5月号)

 昨年再演された「タンゴ・冬の終わりに」は引退した俳優が過去に演じた名場面を再現し、正に「白鳥の歌」だった。