養子のことを皆が意外に知らない

 私は結婚してカミさんの姓を名乗っている。すると皆が養子に入ったのかと聞いてくる。戦後の法律で結婚すると単にどちらかの姓を選ぶことになったのでカミさんの姓を選んだだけです。養子ではありませんと言っていたが、その内面倒になり、ええそうですと答えるようにした。本当の養子は相手の親とも養子縁組する。この場合には遺産相続権が発生する。
 こぬか三合あったら養子に行くなという諺があったが、昔の養子は惨めだったらしい。40年ほど前、友人の従兄が農家へ養子に行った。彼は学校の先生だった。学校から帰宅すると畑仕事をさせられた。朝は早くから姑が夫婦の寝室へきて彼だけ畑仕事に追い出される。婿は労働力なのだ。彼は学校が終わってもなかなか帰宅しなくなり、やがて離婚した。絵具屋の女房 (文春文庫)

 丸谷才一「絵具屋の女房」(文春文庫)に明治大正両帝が養子だったと紹介されている。明治天皇大正天皇も養子だった。大正天皇明治天皇の側室の子どもだったが、皇后に皇子が生まれなかったので皇太子に定められたが、その際、皇后の実子とされた。すなわち養子である。これは明治天皇の先例にならったものだという。明治天皇も側室の子で、先帝の皇后の養子になったのだった。
 なぜ養子かとの理由に、丸谷は正室の子でないと格好が悪いからではなく、女系家族制の名残だという。

帝は后の家へ婿入りしたといふのが建前なのであるから、そこで后によつて皇子が生れず、側室による皇子を皇太子として立てるときには、后の養子になる形をとつたのでせう。
 そしてこの考へ方でゆけば、よく問題になる、天皇家にはなぜ家名がないか、といふこともあつさりと答が出る。なぜあの家には家名がないか。そもそもさういふ家がないからです。
 天子の系図皇統譜などといふけれど、それは、后たちの家々(有力氏族)に婿入りした入り婿たちを観念の上で結びつけて作つた系図にすぎない。後世はともかく、本来は、天皇家といふ家が実際にあつたわけではないのです。

 養子の話はこれでお終い。同じ本の中に静岡大学の近代史の黒羽清隆教授の名講義が紹介されている。

 しかもこの第一回講義のなかでは、聞き所がほかにいつぱいある。陸軍大臣朝鮮人を兵隊に取るやうにしたいと申出たとき、昭和天皇は即座にかう訊ねた。
 徴兵制を施いた以上、選挙権を与へなければならないぞ。そのへんは考へてゐるのか。義務だけ課して権利を与へないのではをかしい。それに第一、朝鮮人に選挙権を与へて本当に大丈夫なのか。
 この話を紹介して、黒羽教授は評していはく。
 「あの頃の世界の政治家の中に、こんな判断を即座にできる君主がどれだけいたかと、私は驚く」と。

 黒羽教授は家永三郎の系統で左翼史家だという。