他者は理解できるのか

 理解できることと、何だか理解できること、そして理解できないことがある。
 生理になるとお腹が張るのと言った女性に、それってどんな感じ? と聞くと、お腹が一杯になったときと一緒よと言われて何だか分かった気がした。
 私は空腹になると手足が震え出し、あげくの果ては発汗しながら大きく震えていくという体質を持っている。医者によると空腹になると血糖値が下がり、相対的にインシュリンの量が高まり、それで震えて発汗するのだという。すぐ甘いもの、たとえば砂糖を摂れとアドバイスされた。ほっておくとどうなりますか? 意識混濁だ。恐い。医者に相談して数時間後に空腹で震え始めた。喫茶店に飛び込みコーヒー1杯に砂糖をスプーン3杯入れて飲んだら見事に収まった。
 空腹時にいつもふるえが来るとは限らない。ふるえが来るときは10分くらい前に分かる。体の中からある感じが起こるのだ。どんな感じかと聞かれたが、答えられなかった。たとえばくすぐったい経験が全くない人にくすぐったさが説明できないようなものだ。経験があれば、詳しい説明はいらない。
 青年の頃対人恐怖症があった。それを克服しようとして、他者をどのように理解するべきか考えた。まずサルトルを読むことによって理解しようと考えたのが間違いだった。サルトルは戯曲「出口なし」でも他者の眼差しが地獄だと言っている。他者の視線があなたを即自存在=物に変えると主張する。逃げ場はないかのようだ。
 メルロー=ポンティの「幼児の対人関係」を読んだのは20代後半だったか。「眼と精神」に収録されている。これを読んだときの感激をまだわずかに覚えている。メルロー=ポンティはたしかピアジュを引用して、幼児が鏡に映った自分の姿を見ながら、右手で左手を握る、この時幼児は握る主体と握られる主体を同時に体験して、それから類推して他者にも主観があることを知るのだ。概ねそのようなことが書かれていた。他者の主観の存在を知る。これが相互主観性、対他主観性だ。それらの根拠をメルロー=ポンティはこの幼児の鏡の体験に求めたのだ。
 他者を理解することの根拠をこんなに平易に教えられて、私の対人恐怖は徐々に消えていったのだった。