思考が枠づけられている

 絵本を見ていた。タイトルは忘れたが、ウサギを飼う話だ。金網で地面を囲いその中に番いのウサギを放す。ウサギは地面に穴を掘りその穴の中で子ウサギを出産する。やがて穴の中で大きくなった子ウサギたちが親に連れられて穴の外へ出てくる。穴の中の子ウサギのシーンは地面の中の断面図で描かれている。それから次の次の見開きページで子ウサギたちが地上に出ている。この時私は前の前の見開きページへ戻って穴の中の子ウサギの数を数え、地上に現れた子ウサギの数と比べ、落ちこぼれのないことを確認した。
 傍でそれを見ていたカミさんが笑った。どうしたのかと聞くと、娘が同じことをしたと言うのだ。地上に現れた子ウサギの数を数え、2見開き戻って地下の巣の子ウサギの数を数えた。親子で同じことをしていると。
 私と娘は似ている。JR亀戸駅の階段の数が42段、住んでいるマンションの6階までの階段が99段ということを二人は知っている。自然に数えてしまうからだ。
 しかしウサギの絵本の体験は私も予想外だった。こういうことなのだろう。似ていると書いたが、発想の型が似ているのだ。どのように発想するか、先験的に決まってしまっているのだ。おそらく誰もが。それぞれが独自の発想をするのではなく、それぞれがあるパターンに従って発想しているだけなのだ。発想が、おそらく思考が、深いところで枠づけられているのではないだろうか。