作間敏宏展が導くもの

mmpolo2007-03-02




 12月に銀座のギャラリー巷房とSpace Kobo & Tomoで行われた作間敏宏個展「接着/交換」に関して私も一度報告したが(id:mmpolo:20061228)、このたび作家がその展示のパンフレットを作り送ってくれた。
 そこに東京国立近代美術館大谷省吾さんから作家への公開書簡が掲載されており、それに対する作家からの返信が掲載されている。きわめて興味深いことが記されているのでここに紹介したい。
 まず大谷省吾さんの書簡から

……ミツバチを扱った3階の展示と、ヌードを扱った地下の展示が、それぞれの部屋の蜜蝋による柱とガーゼによる柱とでゆるやかに関連づけられ、その対比にも興味がそそられましたが、ここでは何より、今回初めて発表された、ヌードの作品についての感想を書いてみたいと思います。
(中略)
 1点の作品につき100人、つまり(9点で)合計900人分の裸体のイメージが重ね合わされていること、そしてその多くがインターネット上から集められたことを、作間さんはそのとき教えてくれました。集められた画像は微妙にポーズが異なっているので、胸に焦点を合わせて重ねると、顔や手足がぼやけていく、ということでしたね。それを聞いてさらに考えたのは、本来は欲望の対象としてネット上に提示された画像が、限りなく重ね合わされていくことで、どのように意味が変容していくだろうか、ということです。(中略)ひょっとしたら、生まれたばかりの赤ん坊は、母親をこのように認識しているのではないか、ということです。顔がぼけて個性がはぎとられていき、単なるボディ(≒死体)のように見えて、同時にまた生の根源をも同時に誇示するような、その両義性。生と死との分かちがたさについて、改めて気づかされたように思います。(後略)

 これに対して作間さんが応える。

(前略)胸が悪くなるほどの枚数のヌード("ネイキッド"というべきですね)写真を集め、それを一枚づつ重ねていくという単純作業に終始した今回も、あらためて個人や個性のことを考えました。顔のときと同じで、それぞれは個性的な裸像が、重ねられていくにつれ徐々に個性を剥奪され、ついには、平均や標準としての"美しさ"を伴いながらも、個性らしきものがすっかり消去された図像としてあらわれてきます。この作業工程は、個性というものを、単に、平均や標準からの部分的な"乱れ"か"歪み"でしかないものとして再定義するようであり、それを受け入れるように僕を誘惑するようでもありました。
 さらに考えたのはエロティシズムのことです。写真の一枚一枚にあふれるエロティックさが、重ねられることで強化されず逆に消失するのはどうしてか? 個性が消えていくこととパラレルにエロティックさが消えてゆくのは、個性とエロスとが不可分だということなのか? 個性の喪失は、エロス(=生)の喪失、つまりタナトス(=死)への変移ということなのだろうか?
 できあがった作品に確かに漂う"死"の印象がはたしてそのあたりに由来するのかどうか、ほんとうのところは僕にもわかりません。ただ、何かを無数に反復してゆくと、意味のパースペクティヴの順序が入れ替わる、たとえばうしろに隠れていたものが前景化するようなことが、確かにあると思うのです。「写真は全て死を連想させるものである」とはスーザン・ソンタグだったと思いますが、特に人物写真では、顔でもヌードでも、夥しい数の重ね合わせによって、その、うしろに隠れていた"写真じたいの死のイメージ"がついに前景化するのだと、今のところそんな気がしています。(後略)

 「個性というものを、単に、平均や標準からの部分的な"乱れ"か"歪み"でしかないものとして再定義する」
 「個性が消えていくこととパラレルにエロティックさが消えてゆくのは、個性とエロスとが不可分だということなのか」
 ここには非常に興味深いことが語られている。個性が標準からの歪みであること、その歪みがエロスであるということ。作間さんは慎重に筆を進められているが、これを敷延することによって、何か新たな実りが得られるように思う。
 たとえばCGで描かれた女性の顔は全く魅力というものが感じられない。現実の美女の顔と比べたとき、CGで描かれた顔には歪みがない。翻って現実に存在する美女は皆標準からみれば歪んで、あるいは乱れて、片寄っているのではないだろうか。その歪みが個性であり、美しさ、魅力であるように思われる。私は作間さんの語られた問題を矮小化している。しかし、このことも含めて作間さんの提議している問題は面白い展開が期待できると思う。