手は期待する

 私は奇病を持っていて治療のため大学病院へ通っている。2年ほど前から万年筆で字を書こうとすると人差し指の力が抜けて万年筆が持てなくなっってしまったのだ。人差し指を使わないで書いた字は見られたものではない。ボールペンだと問題ないのは強く握って書くからだろう。近所の内科医に書痙でしょうかと相談すると、いやストレスです。別の、今度は外科医に相談するとレントゲンを撮り血液検査までして、ストレスだねえ。
 会社の定期健康診断でストレスの診断をしてもらうと、「総合的にみると、あなたはストレスに強い性格のようです。領域的に見れば多少弱い部分がありますが、大きな問題はありません」となった。
 半年ほど前新聞にバネ指のことが紹介されていた。老人に多く、指が曲がったまま戻らなくなる症状とのこと。早速新聞に紹介されている専門医を訪ねる。診察のあと、私は3年前からこの病院でバネ指の治療をしています。3年間で3人だけバネ指ではない患者さんが来ました。あなたがその3人目ですと言われた。musician's hand とか local dystoniaという病名です。専門医を紹介しますと言って教えてもらったのが防衛医大付属病院だった。
 こちらで見てもらうと正に局所ジストニア=Focal dystonia だった。ピアニストやギタリストの指が曲がって演奏できなくなる。銀行員が判子を押そうとすると手首が反り返ってしまう。あなたみたいに万年筆では書けなくてボールペンなら書けるというのは普通と逆ですね、ボールペンだと書けないという症例の方が多い。昔は書痙といいました。ストレスが原因です。
 ここで人差し指にはめるゴムのサックを作ってもらった。これをはめて万年筆で字を書こうとすると、強い力で指が曲がってしまった。力が抜けるのではなかったのだ。
 字を書くと指が曲がると書いたが、正確には2字めで指が曲がるのだ。おそらく万年筆で字を書き始めたとき、そのことを脳が認識するのが1字書き終わった頃なのではないか。脳が認識するのにはわずかだが時間がかかる。
 長い前置きをだらだらと書いてきてこれからが本題。脳が認識するのには時間がかかるという事を既知として、以下の推論を。
 私はマンションに住んでいて、トイレは洋式の大小兼用だ。自宅では普段ジャージみたいなズボンをはいている。それで「小」のときも女性と同じに座って用をたす。ズボンを下ろすとき背中寄りの後ろの方に手を掛けて下ろす。このとき素手が腰から尻あたりの肌に触れる。自分の尻の曲線をなぞる時いつも不思議にちょっとがっかりする、というかそんなような微妙な感じがする。それはなぜか。
 手が尻のあたりに触れたとき脳がどこか遠くで期待するのではないか。一瞬期待して、なんだ自分の尻じゃないかと期待が外れる。脳の認識には少しだけど時間がかかるのだと考えると納得がいくのだ。
 大山鳴動鼠一匹だったろうか。