新名作鑑賞講座……山本弘「箱」byワシオ・トシヒコ

mmpolo2006-11-13




 17世紀オランダのフランス・ハルスは、デッサンをほとんどしなかったようだ。いきなり、カンヴァスへ向かうことが多かったらしい。1976(昭和51)年に制作された山本弘のこの油彩作品も同様、眼前の獲物を狙い定めて生け捕る。まるでハンターのように、生動感溢れるタッチで。一気呵成に、重層的に速描されている。荒々しい息づかいの描線が、生々しい。身辺の箱を対象としながらも、画家の絵筆にかかると、たちまち箱が単なる箱でなくなる。擬人化されたような有機体に変容する。観る者のやわな感性を波立たせる。
 山本弘の遺作展に私が初めて接したのは、東京・京橋の東邦画廊においてだった。1994(平成6)年から2002(平成14)年にかけての、いずれかの年だったろう。作品のどれもが、「箱」のように速描のタッチと色彩とを特徴とし、大胆な構図の半具象系の風景画や静物画だった。海老原喜之助ばりの作品もあったように記憶する。そして今年、2004(平成16)年の2月。新たな遺作展が、銀座の兜屋画廊で催された。亡くなる5〜6年前の50点余で、「箱」もその1点である。
 山本弘をここで扱うのは、多少のためらいを禁じ得ない。作品自体の魅力では、これまで紹介してきた物故作家たちと比較しても、決してひけをとらない。しかし美術史的には、まだ地方的存在にすぎないからである。従って、執筆根拠とすべき伝記的資料が、きわめて限られる。とりあえずは、もっとも新しい遺作展のパンフレットに掲載された略歴の行間から、想像を逞しくして推理するしかないだろう。あらかじめ、断っておかなければならない。

 山本弘は1930(昭和5)年、長野県下伊那郡神稲村(現・豊丘村)伴野に生まれる。太平洋戦争末期の1945(昭和20)年、15歳で海軍乙種飛行予科練習生として入隊するものの、8月15日の敗戦前になぜか脱走する。
 この予科練入隊が自らの意志によるのか、他人に薦められたのか定かでない。以後の人生に及ぼした影が濃く、深いように思われる。どうしてかといえば、翌年から3年間、毎年1回づつ自殺未遂を繰り返すからである。
 最初の年はベルトで首をくくるけれど、古かったため切れて失敗。次は猫イラズを呑み、死に損なう。3年目には、造形美術学校(旧・帝国美術学校、現・武蔵野美術大学)へ入学するが、中途で退学。当時流行したヒロポン中毒に苦しみ、一時帰省する。飯田市の自宅で青酸カリ自殺を謀るけれど、再び生還する。
 これら一連の自殺行為が幻覚的衝動なのか、意図的なのか。予科練入隊と深層で関係するのかどうか、一切不明である。覚悟して入隊したにもかかわらず、特攻隊の予備コースとしての予科練で全うできなかったことへの呵責の念にさいなまれてなのか。死に取り憑かれていたのは、入隊以前からなのか。謎が謎を呼ぶ。出生から入隊までの内面や病理の軌跡を、いずれすべて洗い出さなければならないだろう。
 3度の自殺行為のあと母親が他界し、1953(昭和28)年ごろ、都落ちして帰郷する。日々アルコールに溺れつづけながらも、約20年近く、比較的穏やかに制作活動に励む。画家として、郷里で注目されるようになる。数回の個展を開き、結婚し、長女が生まれたのも、この時期である。
 好事魔多し。だがその間、飲酒癖がますますエスカレートしたのも確かだった。1975(昭和50)年、ついにアルコール中毒患者となり、飯田病院の精神科へ入院するはめとなる。ときに、45歳。
 翌年、2年間の断酒を条件に退院。再び、次々と個展を開く。そこまでは、何とかよかった。1979(昭和54)年になると、とうとうアルコール中毒も本格化し、入退院を繰り返す。1981(昭和56)年7月、ついに来るべき日が来る。自宅で首をくくり、自殺を果たす。今度こそ、永遠に帰らぬ人となったわけである。51年間のこころの闇から解放されるように。
 歴史的に自殺する画家は珍しくない。しかし山本弘のように、まるで死に取り憑かれたように、3度の未遂を経て、4度目に目的を果たしたケースはあまり知らない(未遂の初めが首吊り。最後の死もまた首吊りというのは、偶然の一致か)。ここで強調したいのは、その退廃的軌跡に反し、画面が意外に色彩豊かで、常に活気に充ちていることだろう。どうやら躰が滅びへ向かっても、創造意識だけは誰からも汚されず、純粋さを保ちつづけたようなのだ。彼は画家だが、ニヒルデカダンな生き方は、太宰治田中英光坂口安吾といった戦後まもない小説家たちに、一脈通じる。

(「BIen 美庵」2004年5-6月号)