1994年7月11日〜30日、東京・京橋の東邦画廊で東京で初めての山本弘遺作展が開催され、読売新聞(担当:芥川喜好記者)が針生一郎さんに山本弘に関する寄稿を求め、7月28日の夕刊に掲載された。以下その全文。
山本弘という13年前に51歳で亡くなった画家の遺作展が、いま京橋の画廊で開かれている。
わたしが画廊主夫妻とともに彼の遺作を見に信州飯田に出かけたのは、一昨年の暮れだった。未亡人や知人の回想を聞けば聞くほど、山本は酒に溺れて生活も破綻しながらその危機の中で感覚をとぎすまそうとする、無頼の芸術家の典型と思われた。そういうタイプは長谷川利行、鶴岡政男など近代日本の一系譜を形づくるが、高度経済成長後までつづいたとはおどろかざるをえない。
年譜によると山本弘は1930年生まれで、15歳のとき、海軍予科練へ入隊したが二か月で終戦を迎えた。敗戦の虚脱感からか、復員後肋膜と脚気にかかったせいか、彼はそのころからしきりに死を口にし、何度も自殺をはかっては失敗した。そのうち自己表現を求めて詩作と絵に熱中し、1947年春上京して翌年美術学校に入った。だがすぐやめ、その間ヒロポン中毒に苦しみながら、知り合った老画家のもとに書生として住みこんだり、田舎の村で代用教員をつとめたり、東京と郷里を往復して数年すごした。
1953、4年以後飯田におちついて、日本美術会支部結成や飯田アンデパンダンの創設に加わり、日本アンデパンダン展や平和美術展にも出品しながら、一年おきに飯田市公民館で個展を続けた。だが彼の求める表現は地元に根づよい写実ではなく、そこからの脱出のために酒びたりのデカダンスにむかったともみられる。
1966年、山本は36歳で結婚したが、まもなく深酒のため脳血栓にかかったのか、言葉がもつれ手足も不自由になった。やがて娘が生まれ、妻子への愛情は日記などにもうかがわれるのに、家庭の幸福は芸術の敵とばかり酒乱をつのらせて暴れだしたという。入退院をくりかえすうち半身不随となり、75年にはアルコール中毒治療のため精神科に入院。退院後2年間断酒した。だが再び酒を飲みだして本格的な中毒となり、再度精神科に入院したが、1981年春退院すると酒を飲んで制作をつづけ、同年7月自宅で首をくくって死んだのである。
むろん芸術家の生活がどんな内的苦悩にみちていようとも、作品はそれじたいで評価されるほかはない。だからわたしたちは作品を見る前にどんな成算もあったわけではないが、1点1点みせてもらいながら、しばしば目をみはり、何度も感嘆の声をあげた。初期の暗鬱な色調をもつ写実的な画風から、しだいに形態の単純化と色彩の対照による内面の表出へと転換する。とりわけ注目されるのは、生活が荒廃しても、体力が衰えても、絵画の質の高さは失われないことである。晩年はむしろ、非具象ともいえる奔放な筆触と色塊のせめぎあいのうちに、極限まで凝縮されたイメージがあらわれる瞬間をとらえようとしている。
じじつ、1年おきにひらかれた飯田での個展は、断酒から飲酒再開にかけての1977、78年には2年間に3度もひらかれ、展示作品数もずばぬけて多い。そして二度目の精神科入院中も退院後も、山本は制作への意欲を周囲に訴えてやまなかったという。彼がなくなった1981年、飯田アンデパンダン展には遺作が特別陳列され、85年には飯田市公民館と市内の二つの画廊で400点にのぼる遺作展がひらかれるとともに、友人たちの刊行委員会編で大判の「山本弘画集」が出版された。
とはいえ東京での個展ははじめてだから、わたしには若干の不安がなかったわけではない。風狂無頼の画家など日本ではそんなにめずらしくない上に、何より時代おくれとみえはしないか。だが、案内状がとどくと、画廊には会期前から作品を見たいという問い合わせがいくつもきたらしい。そして作品を実地に見れば、この画家の骨身を削るような孤独な苦悩が、つねに感覚を新鮮に、自由に保ちながら、生の意味を手ごたえのたしかな造形のうちに定着することに向けられていたことがわかる。それは金と物に支配されて生の意味を見失いがちな人びとに、芸術家の表現の原点に固執した必死の探求の貴重さを思い知らせる点で、まさに今日的なのだ。この遺作展が大した宣伝もしないのに多くの観客を集めているのは、そういう事情ぬきには考えられない。
わたしは山本弘に友人が生前つけたあだ名にもとづくという、「酔月院彩管鏤骨居士」の戒名を、まこと個人の面影をとらえて適切だと感じる一方、なぜ日本ではすぐれた芸術家たちが生前、正当な評価に迎えられることが少ないのかを、あらためて考え続けている。
(「読売新聞」1994年7月28日夕刊)