岡本太郎の「痛ましき腕」

以下、彦坂尚嘉さんの文章を紹介します。


目黒美術館で、学芸員の正木基氏が中心になって朝日新聞社後援で『戦後文化の軌跡』展というものが開かれました。
私、彦坂尚嘉も出品し、シンポジウムのパネラーとしても出席しました。
私もこの展覧会に出品していたので、搬入が終わって、その後、オープン前の会場を見て回りました。まだ、監視員もいないので、ゆっくり見ることが出来ました。
そこに岡本太郎の「痛ましき腕」が出品されていました。岡本太郎の作品の中でも、格別に印象的な作品で、それを、近づいて、しげしげとゆっくり鑑賞したのです。
変な絵でした。ものすごく、手順が良く描けているのです。端から描いて、端で終わったという描き方で、映画の看板の描き方でした。おかしいな?と思いました。
以前に『芸術新潮』から言われて、岡本太郎の70年代美術展の記事を書いたことがあったのですが、その時に見た印象は、この「痛ましき腕」のように、手順の良い絵画ではありませんでした。岡本太郎には、基本的に野蛮で自然で、そして混乱がありました。
それに対して「痛ましき腕」は、手慣れたペンキ絵の看板絵でした。おかしい? この疑問を解くべく、年寄りのアーティストに聞いて歩きました。
そういう中で、ギャラリー山口で、山口勝弘氏に会ったのです。
それで「岡本太郎の『痛ましき腕』をしげしげと見たのですが、変なのですよね? あの絵のこと知っていませんか? 」と聞いたら、山口勝弘さんが言うには、「あれは、太郎、描いていないもの!」「え!」、私は絶句しました。「あれを描いたのは、桂太郎だよ。」
山口勝弘氏の話は衝撃的だったので、後日、テープレコーダーを持って、お話を伺いに行きました。
「この岡本太郎の《痛ましき腕》を、桂太郎という人が描いたということを、知っている他の人はいませんか?」「池田龍雄がしっているよ」というので、池田龍雄氏にアポイントメントをとって、お宅に、録音機をもって行きました。
結局話としては、読売新聞の文化部長の海藤さんが仕掛けた話だったのです。海藤さんという人は、読売アンデパンダンをしかけたり、日本最大のクレー展、ピカソ、ダリ、フォービズム展等々、戦後の泰西名画展の数々を企画し、私はその多くを見て育ったのです。
一方で今井俊満、菅井汲、工藤哲巳等々のアーティストをスターに仕立てていく路線を造っていった人なのですが、最初の仕事に岡本太郎をスターにしていくことを目指しているのです。そこで岡本太郎の回顧展を企画して、戦前にパリで描いたとされる作品の再制作を、岡本太郎に命じたのです。しかし、運悪く岡本太郎は、肋膜炎にかかってしまう。
そこで桂太郎と、池田龍雄が雇われて、絵を再制作することになった。戦前のフランスの雑誌に掲載されて、モノクロの小さな写真の上に、升目の方眼を引いて、キャンバスに移していったというのです。そばに蒲団をしいて、岡本太郎は寝ていたそうです。
(以上、彦坂尚嘉氏より引用)


 私も池田龍雄さんに話を聞きましたので彦坂さんの文章を少し訂正します。
 岡本太郎の回顧展ではなく、大きな美術展で岡本太郎も招待された。しかし良い作品が手許になく病いに伏せっていたので、戦前にヨーロッパで描きあちらにおいてきた「痛ましき腕」を再制作することにした。池田龍雄さんらに頼んでモノクロの小さな写真に升目を引いて、そこからキャンバスに輪郭を移してもらった。着色は岡本自身が行ったとのことでした。