吾嬬神社への初詣


 元旦は近所の吾嬬神社へ初詣に行ってきた。吾嬬神社は東京都墨田区立花に位置している。早朝7時ころ行ったが。参拝客は私のほかたった1人だった。実は吾嬬神社はきわめて古い神社なのだ。最寄りの駅は東武亀戸線東あずま駅だし、東吾嬬小学校や橘吾嬬の森小学校というのもある。この辺り一帯は江戸時代あづま村と呼ばれてきた。隅田川にかかるあずま橋も吾嬬神社へ参拝するために掛けられたという説がある。吾嬬神社を描いた広重の浮世絵もある。古代では吾嬬神社を浮州の森と呼んだ。周囲が海だったころ小高い島だったらしい。丘はその後地震地盤沈下してしまったという。古墳があったと鳥居龍蔵が言っている。近くには亀戸石井神社があり、これまた鳥居龍蔵縄文時代からの神社だと言っている。
 この辺り一帯は墨田区立花と言い、その1丁目1番地に吾嬬神社がある。御祭神は弟橘媛オトタチバナヒメ)で、日本武尊ヤマトタケルノミコト)の妃だ。弟橘姫を祭るので吾嬬神社(吾嬬=わが妻)。本当に小さな神社で常駐する宮司もいない。近くには墨田区香取神社江東区香取神社、また有名な亀戸天神など大きな神社がある。
 ヤマトタケルが横須賀走水港から下総の国(千葉県)を目指して浦賀水道を航海しているとき嵐が襲い船が難破しそうになった。海神を鎮めるために弟橘媛が海に身を投げると嵐が治まり無事に対岸につくことができた。その後西の方に舟を進めると一つの島が見えた。そこに弟橘媛の衣服が浮かんでいた。ここに築山を作り衣服を納めた。これが吾嬬神社のいわれとされる。 
 しかしこれらは跡づけされた地名説話に過ぎない。一般に地名説話より地名の方が古く、これらの伝説も「あづま」を説明するために作られたものだろう。もともと吾嬬神社の歴史の方が古いのだ。江戸が東京に変わっても、江戸湾や江戸川のように古い地名が残るように、太古の地名が残っているのだろう。だから東京のあちこちや千葉の木更津あたりにも吾嬬神社が存在している。微かな太古の歴史の痕跡として。
 現在「あづま」が色濃く残っているのは群馬県だ。すると、古代東京は群馬県の豪族の植民地だったのではないかと空想をたくましくしてしまう。