川村記念美術館休館か

DICは27日、保有・運営するDIC川村記念美術館(千葉県佐倉市)の運営を見直すと発表した。東京に移転するか運営を中止するかを検討する。年内に結論を出し、2025年1月下旬に休館する。資産効率の観点から運営方法の見直しが必要だと判断した。(日本経済新聞、2024年8月27日)

 

 DIC(旧大日本インキ)は佐倉市にある研究所の一角に川村記念美術館を所有している。30年ほど前、この美術館の学芸員と話したことがあった。美術館は財団法人のような会社の別組織ではなく、大日本インキの一部門なのだという。なぜかと問うと、会社が不景気で困ったときに所蔵品を売却するためですと言われた。

 2013年に川村記念美術館が、所蔵するバーネット・ニューマンの「アンナの光」を海外に103億円で売却したと発表した時、このことを思い出した。大日本インキの初代社長が日本の古美術を集め、その息子の2代目社長がヨーロッパの名品を収集し、孫にあたる3代目社長がアメリカの現代美術を集めた。ロスコの代表作やポロック、そしてステラのコレクションは世界1だという。バーネット・ニューマンは日本での知名度は低いが、抽象表現主義の第一人者で、アメリカでは一番人気があるという。その代表作「アンナの光」は縦274.3cm、横609.6cm、ほとんど一面赤で塗られ、左端に数cm白が、右端に30cmほど白がある。それ以外滑らかな赤一色。赤い壁の前に立った感じだ。これを当時60億円で購入している。

 社長と言えども60億円をポケットマネーで買えるとは思えない。おそらく会社の資金で買って、株主や従業員向けには、会社が困ったら売れば良いのだと弁解したのだろう。初代から3代までの社長は創業家出身で、会社は自分の財産だと思っていただろう。困ったらコレクションを売れば良いとはつゆ思ってもいなかっのではないか。

 しかし、1999年2代目と3代目が亡くなってしまう。経営は創業家から離れる。印刷インキが主体だった会社の業績は印刷業界の不振に伴い悪化していく。創業家を継いだ経営者たちにはもう美術館への特別な思い入れはない。そのとき、先代が言った「困ったら売れば良い」の言葉が蘇る。まして株主たちには会社の文化への思い入れなど全くないに等しいだろう。

 2018年、DICは所有する安土桃山時代の絵師・長谷川等伯作の国の重要文化財を含む日本画の名品を、すべて譲渡(売却)する方針を決めたと発表する。

 今回の発表はそれらの方針の延長線上にあることは不思議ではない。株主の意向に逆らうことはできないだろう。株主こそ新自由主義の代表格であり、強欲資本主義そのものだから。

 

末木文美士『日本思想史』を読む

 末木文美士『日本思想史』(岩波新書)を読む。カバー袖の惹句に、

古代から今にいたるまで、日本人はそれぞれの課題に取り組み、生き方を模索してきた。その軌跡と膨大な集積が日本の思想史をかたちづくっているのだ。〈王権〉と〈神仏〉を二極とする構造と大きな流れとをつかみ、日本思想史の見取り図を大胆に描き出す。混迷する現代を見据え、未来のために紡がれる、唯一無二の通史。

 

 この要約が本書の特徴をよく表している。日本思想史と題する本は少なくはない。類書と何が違うのか。末木文美士の専門は仏教学と略歴にある。だから日本思想史の宗教的側面がとても詳しい。

 近代についてもはっきりと言い切っていて面白かった。

 第1次大戦後の西洋は、シュペングラー『西洋の没落』をはじめとして、西洋文明、近代文明に対する強い危機感に支配されていた。日本では、その議論を受け売りするとともに、それを乗り越えるのは日本、あるいは東洋の文化だという我田引水の言説へと展開する。京都学派の哲学者だけでなく、文学者や音楽家なども含めて開いた座談会『近代の超克』(1943)は世評に高かったものだが、今日読み返してみると、危機感に乏しい雑談に終始し、当時の思想界(と言えるだけのものがあったかどうか自体がわからないが)の限界を露呈することになった。

 

 日本国憲法について、

……よく知られた第1条は、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」とあるが、「象徴」が何を意味するのかはっきりしないし、「国民の総意」はどうやって確認されるかも分からず、その説明もない。これらの天皇条項は、何とか天皇制を維持しようとして、明治憲法を慌てて作り替えたものであり、戦後憲法が押しつけというよりは、旧勢力とGHQの妥協の産物であることを如実に示している。

 

 末木には仏教史に関する著作もいくつかある。機会があったら読んでみたい。

 

 

ギャルリー東京ユマニテbisのコノハ展を見る

 東京京橋のギャルリー東京ユマニテbisでコノハ展「何が言いたい?」が開かれている(8月31日まで)。コノハは2002年茨城県生まれ、現在美大に在学中で今回が初個展となる。

「沈まぬ舟」



 初個展だというが面白かった。シュールレアリスム的な作品だが、むしろ幻想的というべきかもしれない。個展のタイトルどおり「何が言いたい?」と思うのでもあるが。

 骨を挟んだホットドッグの立体作品も1点展示してあったが、立体はこれが初めて作った作品だという。

 あるいはそのナンセンスさが面白いのかもしれない。21世紀生まれの画家たちが登場してきたのかと感慨もある。

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コノハ展「何が言いたい?」

2024年8月26日(月)-8月31日(土)

10:30-18:30(最終日17:00まで)

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ギャルリー東京ユマニテbis

東京都中央区京橋3-5-3 京栄ビル B1F

電話03-3562-1305

https://g-tokyohumanite.com

 

アートトレースギャラリーの戸田尚克展を見る

 東京両国のアートトレースギャラリーで戸田尚克展「ささらぐ」が開かれていた(8月26日まで)。戸田尚克は1995年東京生まれ、2022年東京芸術大学大学院美術研究科彫刻専攻を修了している。その後ドイツへ留学した模様。2018年熱海市のギャラリーで発表し、その後ベトナムやドイツのギャラリーで発表している。今年1月には天王洲セントラルタワーで2人展を行っている。

 ギャラリーのホームページから、

 戸田はこれまで、「場に付随する記憶」と「その場の複層性」を、インスタレーション、写真、映像といったメディアを通して視覚化を試みてきました。本展示では、浅草にかつて存在した凌雲閣、東京スカイツリータワーを着想点とした映像作品(2022年5月ドイツ、アイゼナハにて発表)を起点に、詩人やギタリストといった他分野のアーティストを交えたインスタレーション作品を展開します。映像作品に加え、浅草凌雲閣があったとされる地域や墨田区地域で採取された「街の拓本」を用いて制作された平面作品12点も展示されます。「風景」というものが客観的で、主体と距離を持った存在―単なる視覚的情報として処理される存在―ではなく、個人の内に内包された主観的なものでありつつも、そこに他者の存在も混ざり込む、有機的なものであることを提示します。

 



 「街の拓本」とは、道路をフロッタージュして、それをコラージュして作品にしている。道路のフロッタージュという手法は以前にも別の作家で見ているが、戸田はフロッタージュしたものを素材としてコラージュして作品化している。その時、戸田の美意識が作品を見事に造形化している。

 なお、作品がどれも八角形なのは、かつての浅草凌雲閣の平面プランが八角形だったためという。

 最終日の夕方駆け込んで見られたのだった。

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戸田尚克展「ささらぐ」

2024年8月3日(土)-8月26日(月)

12:00-19:00(会期中無休)

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アートトレースギャラリー

東京都墨田区緑2-13-19 秋山ビル1F

電話050-8004-6019

https://www.gallery.arttrace.org/

 

カフカ著、頭木弘樹 編『決定版 カフカ短編集』を読む

 カフカ著、頭木弘樹 編『決定版 カフカ短編集』(新潮文庫)を読む。なぜ今カフカ短編集かと思ったら、編者の頭木は20歳で難病になったと後書きで書く。13年間の闘病生活で、『決定版カフカ全集』(新潮社、全12巻)をかたわらに置いて、全巻をそれぞれ100回以上は読んだのだと言う。それで知ったカフカのすばらしさを知ってもらいたいという。新潮文庫では『変身』は入っているが、カフカの短編集はなかったからだと言う。

 本書には15編が収録されているが、最初の「判決」「火夫」「流刑地にて」の3編はカフカ自身が気に入っている作品、それ以外は読者が気に入っている作品だということだ。15編すべてが新潮社の『決定版カフカ全集』の訳をそのまま使っている。

 私がカフカを読んだのは高校生の頃から数年間だったろうか。「変身」とか「城」とか「掟」などの不条理な作品に惹かれたのだった。日本でもカフカの影響を受けた作家は多く、安部公房とか倉橋由美子とかが著名で、私もそれらの作家を読み込んでいった。倉橋由美子カフカに倣って主人公を「K」とまで名付けていた。

 さて、久しぶりに読んだカフカはすでにあの奇妙な作品を書く特別な作家ではなかった。いや、カフカは特別な作家であることは変わらないが、すでに多くの作家たちから模倣されていた。消費されていたと言ったら言い過ぎだろうが。私が最初に読んだころからもう60年が経っているのだ。文学がもし停滞しているのでなければ、それは仕方ないことだろう。50年前に夢中になって読んだヌーヴォー・ロマンさえ、もう読む人もいないだろう。ヌーヴォー・ロマンの期待の星だったフィリップ・ソレルスでさえ、その後この運動を裏切ったのだった。

 とは言え、長編『訴訟』(講談社古典新訳文庫)は15年前に買ってまだ読んでいない。これは旧訳では『審判』の名前で翻訳出版されていた。長編『失踪者』(旧訳は『アメリカ』)はまだ買っても読んでもいない。

 なお、この2冊の名前を混乱して記憶していた。爛漫亭さんから指摘していただいた。