いりや画廊のアキタマイ個展を見る

 東京入谷のいりや画廊でアキタマイ個展「彼は誰時」が開かれている(8月3日まで)。アキタマイは1979年東京生まれ、2004年に多摩美術大学美術学部工芸学科を卒業している。いりや画廊で何度も個展を開いているが、最近は建築家の石山修武率いる「窓計画」に参加している。



 画廊には大きな馬の立体が展示されている。これは渋紙を構成したものだ。柿渋を塗った紙は丈夫で水にも強い。昔の和傘はこの渋紙で作られていた。この馬の造形も、一度野外で使った紙をもう一度ここで使っているという。

 そのほか小品のシルクスクリーン作品が展示されていた。

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アキタマイ個展「彼は誰時(かはたれどき)」

2024年7月24日(月)―8月3日(土)日曜開廊

11:30-19:00(土曜17:30まで、日曜17:00まで、最終日16:00まで)

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いりや画廊

東京都台東区入谷2-13-8

電話03-6802-8122

http://www.galleryiriya.com

東京メトロ日比谷線入谷駅出口1または出口3より徒歩7分

 

 

ドクツルタケの恐ろしい毒性

 長野県でドクツルタケを食べた人が亡くなった。ドクツルタケとドクササコの毒性について、渡辺隆次「きのこの絵本」(ちくま文庫)より引用する。

 

■ドクツルタケ

 

 俗に猛毒御三家といわれるテングタケ科のドクツルタケ、シロタマゴテングタケ、タマゴテングタケのうちの、特にドクツルタケに登場してもらう。ただし、この三種は酷似している。

 ドクツルタケは夏から秋、日本の山中のどこにでも多発する。傘の径が15センチ前後になる大型キノコで、全体は真っ白。柄に綿毛状のささくれがある。シロタマゴにはこのささくれはなく、絹光沢がある。この二種を同じ種とみる学者もいるほどだから、実用的には区別する必要はない。タマゴテングタケは傘が硫黄色、日本には稀である。

 鑑別の急所は三種とも、柄の根もとに球根状のふくらみ、さらに袋状の白いツボがある。柄の上方に襟巻のような膜質の白いツバ、ヒダも白色。以上の三点(白いツボ、ツバ、ヒダ)を揃えたキノコは、絶対に食べないことである。

 ドクツルタケの異名は、「殺しの天使(Destroying Angel)」である。姿が真っ白のうえ形もととのった美しいこのキノコが猛毒とは、一見して誰もがいぶかる。「柄は縦に裂けるし、色も派手じゃないのに」と。味や匂いは特別どうということもなく、一命をとりとめた人の話からは、むしろおいしかったという。シロタマゴテングタケの中毒例はなかなかすごい。小指の先ほどの小さな一本で三人が死んでいる。箸先にひっかかる一かけらで、人間一人を殺すだけの毒成分が含まれる。ドクツルタケの毒成分のひとつ、アマニチンは、200分の1ミリグラムでマウスの致死量である。

 中毒症状は四段階に分かれる。食後6〜24時間に肝臓、腎臓を冒してゆく。その後に激しい嘔吐、下痢、腹痛が一日つづいて、いったんはおさまる。医者も患者も治ったものと思い、退院する場合があるという。だが、翌日になって肝臓、腎臓の完全な破壊。食後3、4日目には、昏睡状態に陥って死ぬ。遺体解剖では、肝臓がスポンジ状になっている例が見られたという。

 以下は、長野県のある医師の記録からの抜粋(筆者要約)である。この医師は1951年頃、たまたまドクツルタケ中毒による2名の死に立ち会ったという、貴重な体験の持主だ。「初秋の雨上がり、A氏は近くの山で大量の雑タケを採取、夕食に”キノコうどん”をつくった。当人が晩酌をつづける横で、妻(60歳)と長男(22歳)の二人だけが食べた、食後6時間でまず妻が、10時間で長男が苦しみを訴え、妻は翌朝(12時間後)、医者の手当ても空しく息絶える。親戚一同、悲しみのうちに葬儀準備をしている傍ら、苦痛を訴えつづけていた長男は、いったん回復する。一同ほっとしたのも束の間、夜になって再び激しい嘔吐。洗面器2杯分の真黒な血へどを吐き続け、余りの苦しさから、畳に爪を立てて這いずり回り、何度も『誰か、オレを助けてくれ!』と絶叫する。妻の葬儀をさておいて、A氏はじめ一同は、全身の凍る思いでただ見守るばかり。明け方、血のりと毛ば立つ畳の上で、長男は母の後を追うように息絶える――」。

 

■ドクササコ

 

 浜の真砂ほどあるキノコ中毒のなかでも、こと苦痛という点でドクササコにかなうものはない。主なる発生地はタケやササやぶ。ヤブシメジとも異名のつく所以であるが、サクラや杉の混ざる雑木林、コナラ林などにも発生する。キノコの傘は径3〜10センチ、成熟すれば漏斗形になり、赤茶色。ヒダはややクリーム色で柄に長く垂生する。肉質は繊維質で柄は縦に裂けやすい。日持ちがよく、一度発生すればその場に1か月も立っている。味よく匂いも不快な点は少しもない。いかにも食欲をそそられる。したがって、迷信上の誤った鑑定法を鵜呑みにすれば、ぴったり食タケと当てはまる。肉質はまったく違うが、一見チチタケやキチチタケなどにも似る。これらは質が脆いうえ柄は縦に裂けず、傷つければ乳液を分泌することで見分けられる。

 一般的にいって、毒キノコを誤食し徴候があらわれるまでの時間は、通常20分〜数時間後、長くて10時間ほどだといわれる。前ぶれとして嘔吐、下痢、腹痛などの症状があらわれる。これらの場合だと食後の時間経過が短いので、キノコが原因ではないかとすぐに疑うことができる。どんなキノコをどのくらいの量食べたか、おおよその見当もつく。ところがドクササコは、食後数日から1週間もたって症状があらわれてくる。ぼくなど昨日一日の献立を思い出すのも容易ではない。ましてや1週間も前に何を口にしたかなど、母の胎内をくぐり抜けたときのことを思い出せないのと同じくらい彼方にある。

 毒は神経系に作用する末端痛紅毒で、手足のさきが赤くはれ、そこへ焼け火箸か針をキリキリ突き刺すような激痛が襲う。ここまでは残忍な拷問執行官もよく使う常套手段といっていい。ドクササコは、その上をいく。日夜の境もなく耐え難い激痛が、1か月、もしくは2か月近くも続くため、七転八倒、断末魔の地獄絵になる。関節運動、接触などにより、痛み、灼熱感はさらに増強される。それほどでありながら、体温や血圧、その他の一般的所見に異常はない。なす術もなく、はれあがった手足を冷水につけ、それも実に1か月、2か月の長期にわたるため、手足の肉は白くぶよぶよにふやけ、ついには骨が出てくる。そこから黴菌が入り、二次感染で、あるいは衰弱して亡くなる人もあるという。

 ドクササコのなんの怨念がこれほど人間を痛めつけるのか、いまだにその正体もよくは分からない。毒成分の一つと思われるクリチジンが取り出されたというが、この物質の作用も未解明。たとえ塩漬けにしたとしても、毒は消えない。かつてドクササコの中毒は、明治、大正の頃まで、北陸地方の不幸な風土病と考えられていた。まさかキノコが原因とは思いもつかず、神仏にすがるか、対症療法もいまと同じ患部を冷水につけることぐらいが精一杯であった。酷寒の真冬に、手足を冷水につけることにでもなれば、いっそうむごたらしい結果になっていたであろう。

 それにしても数十日間、叫喚地獄、灼熱地獄もかくやと、八大地獄巡りを経て生還した人々は天晴れである。以後、なんであれキノコの姿を見れば、異形の化身と映ったか。それとも、この世のすべては光に包まれ、七色の浄土に変容したか――。聞いてみたいと、つくづくぼくは思う。

 

 

 

 

 

 

ギャラリーCASHIの酒々井千里個展を見る

 東京浅草橋のギャラリーCASHIで酒々井千里個展「むだな抵抗」が開かれている(7月27日まで)。酒々井は1998年岐阜県生まれ、現在東京藝術大学大学院美術研究科絵画専攻油画研究室に在籍している。個展は今回が初めてとなる。

 

 展示は極めて奇妙なものだ。ギャラリーにおいてある作品説明を参考にしながら、拙いながら紹介してみる。

 ギャラリーには大きな白い立体(キューブ)が斜めに立てかけられている。キューブの下や後ろに「ギリギリ絵と言える形態」をした絵がある。また隅の方にも同じような「絵」が設置されている。

 また大小まちまちなバランスボールが点在している。これらのボールは「何かしらの意味になりそこなっている」ので、展示を見た人は最初に忘れていくかもしれない、と思う、と。

 中では作品ぽいキャンバスの小品の絵3点は、「絵の具のカスを貼り付けたものや、溶接の残骸」らしい。それらも横長の白いキューブが視覚的に作品の上部分にかかり、作品を通常のように見ることを邪魔する。

 作家のテキストより、

例えば絵を描くと何かしらの独自性、オリジナリティが生まれる。自分はいつもその独自性に対して多かれ少なかれ不安を感じてしまう。その不安が過度に大きくなると、自分自身の作品を否定したくなるときがある。それゆえニュートラルな(例え、仮でもいいから)物体で絵の表面を隠す。当然のことだが、絵の前面に不透明な物体を配置し、後ろの部分を隠してしまえば、その部分は見えなくなる。表面を隠せば、正面からは見えなくなる。

しかし、そうしてニュートラルの仮面を手に入れた絵は、本来の独自性を薄めることには成功するかもしれないが、同時に別の何かに変容してしまう。仮のニュートラルの仮面が妙に目立ち、不自然な存在感を持ってしまう。

否む。

視線を阻む。圧。

迂回するように見る。なりそこなった光景。

無駄、むだ。むだな、抵抗。


 作家の意図が理解できたとは思わないが、久しぶりに極北の展示に触れた思いで、それなりに面白かった。次の展示も見てみたい。

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酒々井千里個展「むだな抵抗」

2024年6月28日(金)―7月27日(土)

11:00-18:00(日・月・火 休廊)

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CASHI

東京都台東区浅草橋5-6-12

電話03-5825-4703

http://cashi.jp/lang/ja/

 

ハルノ宵子『隆明だもの』を読む

 ハルノ宵子『隆明だもの』(晶文社)を読む。ハルノ宵子は漫画家で吉本隆明の長女、本書は晶文社の『吉本隆明全集』の月報にハルノが書いたのをまとめたもの。それに妹の作家吉本ばななとの姉妹対談などを併せて編集している。あの大思想家にして詩人の吉本隆明の家庭人としての姿を描いている。それは敬愛する人の家庭を覗き見するような思索の秘密を探るような興味深いエッセイだった。

 吉本隆明は大学教授などの定期収入のある職には就かなかったし、講演も主催者側の“言い値”で引き受けるので、講演料は自腹で遠方まで出向いても、5万円とかテレカ1枚の時もあった。収入の主たる印税は、新刊が年に2、3冊程度、初版が6000部程度、仮に1冊2000円の本で印税が10%として120万円が入る。基本年収は数百万円だったとのこと。

 ハルノ宵子が生まれた頃、吉本一家は駒込林町に住んでいた。その後上野の仲御徒町に住んだ。上野松坂屋の裏手だという。ばななが生まれたのは谷中初音町、その後は田端の高台、以上すべてアパートや借家だった。初めての持ち家が千駄木、そして本駒込の吉祥寺には1980年に引っ越した。どちらも借地だった。この吉祥寺の家が吉本隆明の最後の家となった。

 さて、私はハルノ宵子のエッセイを吉本の家族を覗き見するように読んだのだが、現在『ちくま』に吉本隆明論を連載中の鹿島茂は、本書から『共同幻想論』の対幻想を吉本が発想した元を抉り出す(2024年7月号)。

 吉本は、大学受験を控えたばななを夜な夜な連れ出して遊んでいた姉のハルノについて、ばななに「お姉ちゃんは妹に、自分よりいい大学に入られるとイヤだから、嫉妬して(勉強できないよう)連れ回してんだから気をつけろ」と言ったという。このほかハルノは吉本が案外嫉妬深かったエピソードを挙げている。鹿島は、吉本は嫉妬深かったのではなく、「嫉妬という感情の重要性を認識していた」と指摘する。

 吉本は『共同幻想論』で、エンゲルスの集団婚の成立についての説明に反論を加えている。

 人間は歴史的などの時期でも、かつて男・女として〈嫉妬〉感情から全く解放されたことなどはなかったのである。せいぜいうぶな男(雄)のほうが、さんざん女遊びをやっている遊治郎より異性に対する〈嫉妬〉感情は大きいという事実が眼のまえにみられるだけである」(母性論)

 ここで、嫉妬に狂う「うぶな男」というのは、知人の妻であった荒井和子と出会って三角関係に陥って苦しむ若き日の吉本自身、つまり「うぶな男であった吉本自身」の投影であると見なすべきであり、また、それとの対比でより嫉妬の感情が低いとされる「さんざん女遊びをやっている遊治郎」とは『荒地』同人だった田村隆一、あるいは鮎川信夫などではないかという推測が充分に成り立つと鹿島は言う。いかえれば、吉本は自らの体験から割り出して、エンゲルスに強く反論しているということになると鹿島は断言する。

 対幻想という観念は、吉本の個人史の反映、とりわけ嫉妬感情というものの分析結果からもたらされた部分が大きかったのだと。

 鹿島茂の『ちくま』での連載はもう6年にも及んでいる。そろそろ吉本隆明論も完結するのだろう。単行本になるのが楽しみだ。

 

 

 

『吉本和子句集 七耀』を読む

夭折の霊か初蝶地を慕う

墓までの遠き道辺の姫女苑

家重し七耀歩む蝸牛

大夕立人は魚となりて跳ね

眠られぬ夜はまず風鈴を眠らせる

秋燕の並みて越ゆべき海を見る

コスモスの背き合いつつみなやさし

血の色に昇るもやがて名月に

触れられて触れて芒の道を行く

無花果を木に愛で夕べそれを食ぶ

鳥の体通過(とお)りてここにも実南天

石の街に小さき土得て冬菫

 

 奥付を見ると、発行者:吉本多子/吉本真秀子とあり、発行所は七耀企画、発売元:深夜叢書社となっている。吉本多子は漫画家ハルノ宵子、吉本真秀子は作家吉本ばななで、著者吉本和子は吉本隆明夫人だ。本書は娘姉妹による母の句集の自費出版となる。

 ハルノ宵子『隆明だもの』(晶文社)に母親の句作についてのエピソードが紹介されている。

 

 母は結婚する時、父から「もしあなたが表現者を志しているのだったら、別れたほうがいいと思う」。と言われ、それまで書いていた小説をやめた。一家に2人表現者がいたら、家庭は成り立たないということだ。

 和子が最初の句集『寒冷前線』を出版したときも隆明は手に取らなかった。第2句集『七耀』も見ることはなかった。

 2007年、とある地方の同人誌から依頼され、母は数句を投句した。ある日、母はさりげなくその同人誌を「ほら、読んでみて」と、父に手渡した。意外にも父は素直に受け取り、(その頃にはかなり眼が見えなくなっていたので)拡大鏡で時間をかけてそれを読んだ。そして「フフン、お母ちゃんもいっぱしの俳人になったじゃないか」。と、同人誌を母に返した。

 しかしその時を境に母は壊れた――と、私は思っている。心身共に…つまりオリンピックで金メダルを取った選手が、目標を達してモチベーションを失ったかのように、私には思えた。その後だって、もちろん句作は続けていたし秀作ではあるが、以前の“ひらめき”のようなものは失われた。(中略)

 父に“表現者”として認めさせた時点で、母の目標は達成されたのだ。(中略)

 父が認めた句の中で、最高峰だと思っているのがこの句だ。

 

 あとがきは海市の辺より速達で

 

 巻末の解説で深夜叢書社の齋藤慎爾が絶賛している。これは過褒ではないかと思ったら、和子に句作を指導したのが齋藤慎爾だった。