コバヤシ画廊の井崎聖子展を見る

 東京銀座のコバヤシ画廊で井崎聖子展-prominence-が開かれている(6月3日まで)。井崎は東京都出身、1988年に女子美術大学を卒業し、その後Bゼミで岡崎乾二郎中村一美など錚々たる作家たちに学んでいる。


 井崎は黄色い雲のような画面を作っている。絵具を何度も何度も塗り重ね、最初の印象とは違って強固なマチエールを作っている。地色の白だけでも4種の絵の具を使っているという。

 岡崎乾二郎中村一美に学んだだけあって、井崎は無反省に描くことはしない。おそらく一度は描くことを否定し、それをもう一度否定して描いているのではないか。単純な平面に見えるがコンセプチュアルな作品でもある。

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井崎聖子展-prominence-

2023年5月29日(月)-6月3日(土)

11:30-19:00(最終日17:00まで)

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コバヤシ画廊

東京都中央区銀座3-8-12 ヤマトビルB1

電話03-3561-0515

http://www.gallerykobayashi.jp/

 

 

夏井いつき『句集 伊月集 鶴』を読む

 夏井いつき『句集 伊月集 鶴』(朝日出版社)を読む。マスコミに出演して人気のある俳人の50代の句を集めた句集。繊細なものへの気づきが見事だと思う。

 

龍角散みたいに冬の日の匂ふ

 

馬臭き氷を育てゐるバケツ

 

水は球体そらも球体春もまた

 

隠居所の伊万里の便器梅の花

 

蝶の舌ふれたる水のびりびりす

 

木蓮の愁いの器たるかたち

 

牛の血に太れる金の虻の腹

 

卵管を卵子は麗かに進む

 

二つ目の月産み落としさうな月

 

荻はみな弔旗のごとくひるがえる

 

秋蝉の羽浮く水に手を洗ふ

 

 興味深い句を拾ってみた。こうしてみると、句のキモである新鮮な視点、意外さには優れているけれど、何か深みが足りない印象がある。私の考える深みとは矢島渚男の句に現れているような思想のことだ。

 桐の花かかげ安中榛名かな

 そういえば昔榛名という名前の女性がいたことを思い出した。

 

 

 

 

東京都美術館のマティス展を見る



 東京都美術館マティス展が開かれている(8月20日まで)。「20年ぶり 待望の大回顧展」と謳われている。日時指定の前売券を購入して行って見た。さすが人気で入場に列を作っている。館内も人が多かった。大作は少なく、大回顧展と呼ぶには出品点数もさほど多くはなかったが、十分堪能した。セザンヌマティスピカソはいずれも見逃せない真の巨匠と言えるだろう。

 宇佐美圭司が『20世紀美術』(岩波新書)で、抽象表現主義を批判してマティスに帰れと言っていた。


 観客が多いのは仕方ないだろう。展示には満足した。会期が長いのでまた行ってみたい。図録も充実しているが、3,300円もしたのはちょっと痛かった。

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マティス

2023年4月27日(木)-8月20日(日)

9:30-17:30(金曜日は20:00まで)月曜日休館

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東京都美術館

東京都上野公園8-36

ハローダイヤル050-5541-8600

https://matisse2023.exhibit.jp/

 

 

 

 

 

橋爪大三郎『死の講義』を読む

 橋爪大三郎『死の講義』(ダイヤモンド社)を読む。「はじめに」で「この本は、死んだらどうなるかの話です」と書かれている。橋爪は必ず訪れる「死」に対応するために世界各地の宗教を解説していく。世界の宗教を大きく分けて、一神教ユダヤ教キリスト教イスラム教)、インドの宗教(ヒンズー教、仏教)、中国の宗教(儒教、仏教、道教)、そして最後に日本の宗教を取り上げる。

 日本の仏教は天台宗真言宗念仏宗禅宗法華宗。そして儒学国学、平田神道

 一神教キリスト教イスラム教)は人間は死んでも死なないと考える。やがて復活する。

 ヒンズー教は死んだら輪廻すると考える。輪廻するとまもなく別の人間や動物に生まれ変わる。インドの仏教は、真理を覚れば仏(ブッダ)になり、覚らなければ輪廻を繰り返すと考える。

 中国で生まれた禅宗では、正しい座禅をすれば誰でも仏であると説く。そう言えば、私も19歳のときに、悩んで訪ねた渕静寺(曹洞宗)の小原泫祐和尚さんから座禅を教わり、その時座禅をしていれば仏だと言われたことを思い出す。

 中国の儒教は「忠」と「孝」である。忠は政治的リーダーに対する服従、孝は血縁集団の年長者、とくに親に対する服従だ。橋爪は、祖先崇拝は自分が死ぬことから巧妙に眼を背ける仕組みなのだと言う。そして道教は、死ぬと地獄に下ると考える。

 日本の仏教では、念仏宗は信仰があれば仏になると考える。禅宗は世俗の職業の務めに集中すれば死を超越できると考える。法華宗は菩薩行の実践、「南無妙法蓮華経」の題目を唱えることを重視する。それが仏の道だから。

 さて、私は自分が死んでも、家族や世の中は存在すると思っている。橋爪によれば、これも立派な「信仰」だとのこと。私もがんを宣告されてから死を具体的に考えるようになった。死はありふれた事柄だ。何も特別なことではない。日常の延長上に淡々と受け入れれば良い。両親も祖父母も先輩たちも友人たちもそのように亡くなっていった。私もその時が来たら静かに去って行こう。

 振り返れば幸せな人生だった。ほとんど思い残すことはない。いや、思い残すことはないことはない。でも誰だって思い残して死んでいくのだ。そのことに不満はない。

 本書に戻れば『死の講義』とは、やや羊頭狗肉のそしりがあるのではないか。

 

 

 

中央公論新社 編『対談 日本の文学 素顔の文豪たち』を読む

 中央公論新社 編『対談 日本の文学 素顔の文豪たち』(中公文庫)を読む。1960年代の後半に中央公論社から『日本の文学』全80巻が刊行された。その月報の対談を編集したもの、全3巻で刊行予定の1冊目。24篇が収録されている。

 幸田露伴について幸田文瀬沼茂樹が語っている。それがとても興味深く楽しい。森鴎外については、森茉莉三島由紀夫が、また小堀杏奴大岡昇平が対談している。そのように息子や娘に親のことを聞き、あるいは漱石など弟子に話を聞いている。

 宮本百合子については湯浅芳子本多秋五が聞いているが、湯浅芳子は百合子と同棲しソ連にも一緒に行って暮らしていた。最後に百合子は湯浅のもとから逃げ出して宮本顕司と一緒になる。百合子について語るのは湯浅芳子が最適の人選だったろう。

 今までこんなに豊かな文学史の資料を編集して出版しなかったことが勿体ないことだった。講談社はずいぶん前から文学全集などの月報を講談社文芸文庫で発行して来ていた。月報には興味深いエッセイや対談などが多い。ぜひ各社がこのように編集して発行するようにしてほしい。

 本書に関して唯一の小さな不満はその地味すぎるカバーデザイン。あまりにも古すぎる。中公文庫のカバーデザインは根本的に考えたほうがいいのではないか。