芥川喜好『時の余白に 続々』を読む

 芥川喜好『時の余白に 続々』(みすず書房)を読む。芥川は元読売新聞編集委員、読売新聞朝刊の連載コラム「時の余白に」をまとめたもの。『時の余白に』『時の余白に 続』につづく3巻目。しかし、このコラムは2020年4月25日で、1293回続いた連載を打ち切ったため、この『~続々』が最後となる。

 笑いについて、

 テレビの画面にあふれるのは、人を笑わせようとして仕組まれる笑いです。けたたましく、押しつけがましいものも少なくない。自分を主張するために演じる笑いだからです。

 

 私もテレビ番組にはお笑い芸人の登場が多すぎると思う。昔から落語の笑いは好きだったけど、漫才は嫌いだった。当時はテレビではなくラジオだったけど。

 

 あまり知られていないピアニストについて、

 このひと月ほど、折りに触れて1枚のCDを聴いていました。松岡三恵さんという、4年前に78歳で世を去ったピアニストの演奏するシューマンショパン、リストです。

 半世紀以上前、20代の松岡三恵さんは花形の演奏家でした。やがて徐々にステージから遠ざかり、音楽界の表面には見えなくなります。ディスクは49歳で開いた最後のリサイタル時のものです。

 

  ディスクに付された解説書に夫の音楽評論家石井宏が書いていることを引いている。

 1963年、三恵さんは石井さんと結婚し表舞台から身を引いていきます。「自分の意志でした。もともと華やかなものに興味はなく、目立つことを嫌っていた。日常を心豊かに暮らすことに価値を置いていた。私も賛成でした」と石井さんは言います。

 

 そうか、そんな姿勢もありなのか! AmazonでこのCDを探したが品切れだった。

 

 画家の谷川晃一の『毒曜日のギャラリー』を紹介する項で、芥川は書く。

 思い出すのは、『毒曜日』刊行の前年に美術手帖増刊に発表された「美術の理論公害」という谷川さんの一文である。これは20世紀の主流だった理論最優先の美術に対する根源的な疑惑の表明であると同時に、新奇な理論を取っかえ引っかえして常に最先端に居続けようとした当事者たちの空疎で滑稽な姿を皮肉った、きわめて戦闘的、かつ行き届いた批評だった。

 イメージの否定や、手で描くことの否定といった動向を指摘するまでもなく、20世紀美術の主潮が人間への関心を喪失したところで展開してきたことが、「作り手」の側から書かれたこの文を読むとよく分かる。同時に、美術について書かれた多くのものが言葉の射程の短さゆえにほとんど外の世界へ届かず、関係者の間にしか流通して来なかった事情も分かるのである。

 

 これは今でも有効な指摘だろう。

 この「時の余白に」のコラムは2006年4月から始まったという。それがまる14年間も続いたのは、それだけ評判が良かったからだろう。このコラムが終っても、どこかでエッセイを発表しいってほしい。

 

 

 

フリードリヒ・グルダ『俺の人生まるごとスキャンダル』を読む

 フリードリヒ・グルダ『俺の人生まるごとスキャンダル』(ちくま学芸文庫)を読む。グルダはウィーン出身の20世紀を代表するピアニスト、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集やモーツァルト、バッハなどクラシックの名盤を数多く録音したほか、作曲やジャズの演奏も行っている。

 タイトルから想像できるようにかなり大胆に本音を語っていて面白い。

 ホロヴィッツは正直なところ、いつもあまり好きにはなれなかった。ああいうふうにバリバリ弾きまくる演奏に対しては、俺は自分が受けたウィーンでの教育によって、免疫を与えられていたんだ。(……)なるほどたしかにあのピアニストはすごく速く、すごく大きな音で、まあ、たとえばチャイコフスキーなんかを弾きまくることができるし、そのうえ、トスカニーニの娘と結婚することだってできる。でも、彼はいちばん肝心な音楽というものについては、遺憾ながらほんのわずかしかわかっていない、っていうことなんだ。(……)俺としては、彼の演奏に感銘を受けたことは居一度もなかったんだ。(……)

 そこへいくと、ルービンシュタインは違ってた。彼はチャーミングなところがあったし、やたら弾きまくるタイプじゃなかった。非常に端正なピアニストなんだけど、どこかきらくなくつろいだ雰囲気があった。(……)彼の演奏も俺とは違う流派の演奏だけど、そこにはもの狂おしいファナティズムはないし、やたらバリバリ弾きまくるあのいやな趣味もない。完璧な演奏をする人だけど、彼はいつも世慣れた紳士という感じだった。(……)それにルービンシュタインは――俺はそのことをとても重視するけど――ピアノという楽器をきれいに響かせることができる。タッチがいいわけで、ようするに音がきれいなんだ。この点に関して俺がしんそこ感心するのは、ルービンシュタインミケランジェリの両氏の名人技だね――ま、俺自身については、謙譲の美徳をもって除外させていただくけど、彼らが弾けばピアノは鳴る。素晴らしい音で鳴るんだ。

 

 グルダアメリカのキンバル社に買収される前のベーゼンドルファー社のピアノを絶賛する。そして日本のピアノについては、

 日本製のピアノについても触れておこう。リードしているメーカーはヤマハで、かなり距離をおいて次にくるのが、ええ、なんていったっけ――そう、カワイだった。これはだいぶ差があって3流ってとこかなあ。でも、ヤマハはがんばってるよ。俺自身としては、スタンウェイやベーゼンドルファーと本当の意味で品質をくらべられるヤマハのピアノってのは、まだお目にかかったことがない。

 

 現代音楽について、

「現代音楽」ということになると、そこにあるのは、重苦しい落ち込みの気分と自殺傾向なんだ。「現代音楽」とはストラヴィンスキーとか、バルトークとか、シェーンベルクとか、シュトックハウゼンとか、ブーレーズ等々の音楽のことだ、と思っている人が多い。俺のピアニスト仲間たちのなかにも、嘆かわしいことにそう思っている奴が少なくなくて、自分で弾いたりもしている。でも、俺から見れば、そういうのは精神的自殺だよ。ところが、多くのクラシック馬鹿たちは、聴き手も批評家も、それがわかっていない。連中は、彼等だけのおぞましいゲットーの中で生活してるんだ。

 

 グルダは教師をするのが嫌いだという。生徒はみんなヘタだから。グルダはヘタな音楽は嫌いだという。だが、マルタ・アルゲリッチは違った。

(……)ママ・アルゲリッチが、(神童だという)12歳になる娘のマルタを連れて、俺のところへやってきたんだ。俺は、まあちょっとピアノを起用に弾くくらいの、たいしたこともない子供なんだろう、と思っていた。すごく可愛い子だから、俺も少しは愛想が良くなって、「何を弾いてくれるの? どこでピアノの勉強をしたの?」って、やさしく訊いた。緊張を解いてやろうと思ったんだ。こうして彼女は子供らしい素直さでシューベルトを弾いた。もう、驚いたのなんのって。神童ってものが、本当にいたんだよ。

 

 この他、17歳のときに最初の女性から受けた手ほどきのことも面白かった。いや、そのほかにも興味深いエピソードが満載だった。グルダベートーヴェンを聴いてみよう。

 

 

 

菊畑茂久馬『戦後美術の原質』を読む

 菊畑茂久馬『戦後美術の原質』(葦書房)を読む。1950年代美術、浜田知明論、坂本繁二郎論が中心で、それに『美術手帖』に連載したエッセイを収録している。

 1950年代美術より、

(……)50年代美術は「肉体絵画」からはじまったのである。福沢一郎「虚脱」(1948年)、「敗戦群像」(1948年)、鶴岡政男「重い手」(1949年)、「夜の群像」(1950年)、麻生三郎「ひとり」(1951年)、阿部展也「飢え」(1949年)、「神話」(1951年)……頭に浮かぶまま並べてこのあたりで止まった。何かしらどこからともなく一種おぞましい気分が漂って来る。逃れようもなくわれわれ戦後思想の祖型である。どれもこれも、どろどろ、うねうね、うめき、苦しみ、転がされた「肉体絵画」である。

 

 菊畑は浜田知明について、「初年兵哀歌」や「風景」など一連の戦争を主題にしたシリーズを発表したのは、1951年から54年にかけてであるとして、その間の作品を絶賛する。

 浜田は1964年に一人ヨーロッパに旅立った。それについて菊畑は容赦ない。

 パリのフリードランデルの工房で制作した「盾と兜と貞操隊」(1965年)に始まる「わたしの見たヨーロッパシリーズ」は、浜田の仕事の中で最も脆弱な自己の思想的立脚点を見失った甚だしい崩壊現象を起こした作品であろう。

 

 坂本繁二郎について、

(坂本)繁二郎という人は、実はわたしたちが考えている日本の近代洋画の発展の過程や、絵描きの成熟のパターンをどこかで全面的に否定する、ないしは徹底的に暴露している画家ではないか。さらに言うと、日本における近代洋画の発展、とりわけ西欧文化導入の内実、あれはみんな虚妄ではないか、という何かひやりとするアンチテーゼを握っているような、少なくともその問題の仮説が立ち得る画家ではないか、そう思いはじめたのである。

 

 菊畑は単なる前衛的な地方画家などではなくて、美術評論家としても一流だったことがよく分かった。

 

 

 

東京画廊+BTAPのAyako Someya展を見る

 東京銀座の東京画廊BTAPでAyako Someya展「呼吸をするように」が開かれている(4月1日まで)。Someyaは1981年東京都生まれ、聖徳大学人文学部英米文化学科を卒業後、2007年より古典の書を学んだ。2014年にニューヨークの「ZERO ART」に参加後、井上有一のカタログレゾネの仕事に携わったことをきっかけに書をアートとして観ることを学び、本格的に作品に取り組む。(以上画廊のホームページより)。

 さらに、

Someyaは地域性を排除した元素記号を用い、絵画的な表現を達成しています。本展の作品は「空気」をテーマに、地表付近の大気を構成する分子に注目するものです。面に広がる墨の滲みと余白の構成は、呼吸するような感覚を目覚めさせることでしょう。現代の社会が落ち着いた生活を取り戻せるようにというアーティストの願いがここに込められています。


 ほとんど抽象絵画のようで面白い。私には書が分からないので、そういう面での評価は誰かに任せたい。

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Ayako Someya展「呼吸をするように」

2023年2月25日(土)-4月1日(土)

12:00―18:00(日・月・祝 休廊)

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東京画廊BTAP

東京都中央区銀座8-10-5 第4秀和ビル7階

電話0 3-3571-1808

https://www.tokyo-gallery.com/

 

 

STEPSギャラリーの唐詩薏&霜田哲也展を見る

 東京銀座のSTEPSギャラリーで唐詩薏&霜田哲也展が開かれている(3月18日まで)。二人展と思ったら、唐と霜田の二人がすべての作品を合作している。具体的には交互に描いているのだという。そういう制作方法は丸木位里丸木俊の合作の例があった。

 唐は抽象的な作風で、霜田はアニメっぽい作風だという。その二人の合作はどうなったか。


 ふつうに一人の作家が制作する作品と異なっていると感じたのは、予定調和的な完結性がないように感じた点だ。一人の作家が制作する場合、その作家の目指す完成へ向かって製作していく。ところが二人が別々の感性で制作している今回の場合、二人の作家の目指す方向が二つ別々にある事になる。作品として完成させるために二人はそれなりに協力するだろうが、どこか調和がとれていない。やはり何か違和感を感じるのは否めない。その違和感が作品として面白く感じられた。

 二人でさらにこの方法で作品を作り続けてみてほしい。

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唐詩薏&霜田哲也展「Treat Your Hair To Paradise!」

2023年3月13日(月)-3月18日(土)

12:00-19:00(最終日は17:00まで)

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Stepsギャラリー

東京都中央区銀座4-4-13琉映ビル5F

電話03-6228-6195

http://www.stepsgallery.org