池上彰・佐藤優『漂流 日本左翼史』を読む

 池上彰佐藤優『漂流 日本左翼史』(講談社現代新書)を読む。『日本左翼史』シリーズの3冊目で最終巻。副題が「理想なき左派の混迷 1972―2022」、最初の『真説 日本左翼史』の副題が「戦後左派の源流 1945-1960」と15年間を扱い、次の『激動 日本左翼史』の副題が「学生運動と過激派 1960-1972」と12年間を扱っていたのに対し、本書は最近の30年間を取り上げている。つまりそれだけ最近の日本左翼史に動きが少なかった、停滞していると言うことなのだ。

 本書の構成は、「左翼“漂流“のはじまり」、「”あさま山荘“以後(1972年~)」、「”労働運動“の時代(1970年代①)」、「労働運動の退潮と社会党の凋落(1970年代②)」、「”国鉄解体“とソ連崩壊(1979~1992年)」、「ポスト冷戦時代(1990年代~2022年)」となっている。

 「序章」で全体が概括される。

 

池上彰  第1章では、早稲田大学で起きた「川口大三郎事件」や三菱重工業爆破事件などを取り上げながら、新左翼が自滅する過程を辿ります。

佐藤優  第2章では、70年代の左翼史を語るのに欠かせない労働運動の高まりについて考えます。(中略)社会を成熟させるのに大きく貢献した左派の運動を振り返り、組合活動の成果や社会党の存在感を論じられたらと思います。

池上  (前略)第3章では、社会党の分裂・凋落について丁寧に見ていきましょう。

佐藤  最後に第4章では、ソ連が影響力を失い崩壊へと向かう国際情勢の大転換と、「国鉄解体」という国内の大改革が起きた80年代~90年代前半を中心に語ることになります。中曽根康弘が主導した民営化の動きは、現在の新自由主義が席巻する社会の始まりと見ることができます。それに合わせ、左翼の存在感がますます失われ、ソ連崩壊によってとどめを刺される。その過程を話していきましょう。

 

 

 左翼の限りない退潮が語られる。もう左翼は終わったのではないかとさえ思わされる。現在の新自由主義に対してどのように対抗していけばいいのか。

 「終章」で佐藤が言う。

 

佐藤  (……)私たちがいまこの状況においてすべきなのも、おそらくはまずは『資本論』に立ち返り、戦争と資本主義の関係について、マルクスが解き明かした原理に戻って考え直すこと。そうすることで、ナショナリズムなるものが資本家ではない私たちプロレタリアートにとっていかなる意味を持つのか問い直すことだと思うんです。

 

 そして佐藤は斎藤幸平に期待すると言う。本当に期待できるのだろうか。

 

 

 

ガルリSOLの荒井信吉の作品が面白い

 東京銀座のガルリSOLで「今在る、四人展」が開かれている(8月6日まで)。参加しているのは、阿部元子、斎藤伊生史、荒井信吉、勝間田佳子の4人だが、私には荒井信吉の作品が面白かった。荒井は1970年東京都生まれ、1996年に多摩美術大学を卒業している。2003年からガルリSOL、その他で個展を繰り返している。

 荒井の作品はレリーフ状のものが面白かった。段ボールに純金箔、真鍮箔、純銀箔、合金箔、顔料、蜜蝋、木、ウレタンニスを使っている。大きな作品は3点の作品を組み合わせている。


 支持体が段ボールのためか、少しぐにゃりとした感じが面白く、また細部もごちゃごちゃとしていて、カチッとしていないところも魅力的だ。凹部と凸部を組み合わせて作品として展示しているが、葉書にはサイズ可変となっているから別の形の組み合わせも可能なのだろう。

 その右側に平面作品が3点並んでいた。

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「今在る、四人展」

2022ン円8月1日(月)―8月6日(土)

11:00-19:00(最終日17:00まで)

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ガルリSOL

電話03-6228-6050

https://galerie-sol.com/

 

ギャラリー檜Cの桜井久美作品展を見る

 東京京橋のギャラリー檜Cで桜井久美作品展が開かれている(8月6日まで)。桜井は1991年青山女子短期大学芸術科卒業、1999年武蔵野美術学園彫塑科を卒業している。1996年にモスクワで個展をし、その後銀座のギャラリー・アート・ポイント、ギャラリーなつか、ギャラリー ラ・メールなどで個展を開いて来た。

 ギャラリーの中央に置かれた作品を見ると、古い柱を使っているようだ。柱にはコンセントと電線が付いたままだし、古いシールも貼られている。そんな古材を利用して新しく木彫を組み合わせ、古材の柱がねじれたような面白い作品に仕上げている。


 ほかにも小品の造形が面白かった。


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桜井久美作品展

2022年8月1日(月)―8月6日(土)

11:30-19:00(最終日17:00まで)

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ギャラリー檜C

東京都中央区京橋3-9-9 ウインド京橋ビル2F

電話03-6228-6361

http://hinoki.main.jp

 

筒井清忠 編『昭和史講義 戦後文化篇(上)』を読む

 筒井清忠 編『昭和史講義 戦後文化篇(上)』(ちくま新書)を読む。19のテーマについて各専門家がそれぞれ20ページほどを当てて解説している。この上巻は思想や文学などを取り上げ、下巻は主に映画を取り上げている。コンパクトにまとめられて大項目主義の事典のようだ。

 「丸山眞男橋川文三」の項で、筒井清忠は、「橋川は、戦後この分野で決定的に重要であった丸山眞男の昭和超国家主義研究の成果を根底からひっくり返したのである」と書く。おお! すごいじゃん。

 藤井淑禎による「戦後のベストセラー」の項の分析も興味深かった。単なる当時の売れ行きの統計を見るのではなく、「好きな著書と好きな著者」などのランキング表なども見て、常に上位にある作品を『宮本武蔵』と『風と共に去りぬ』だと結論づける。

 取り上げられている文学者(作家)は、獅子文六石坂洋次郎石原慎太郎林房雄三島由紀夫松本清張水上勉五味康祐柴田錬三郎有吉佐和子小林秀雄大宅壮一岡本太郎など。文学者の業績から選んでいるのではなく、社会的な影響(話題)から選んでいるようだ。

 これらのうち、三浦雅士の執筆した「石坂洋次郎――マルクス主義民俗学の対立を生きる」は圧巻だった。他とは群を抜いている。三浦は書く。「マルクス主義民俗学を対立軸として捉え、その間に自身の文学創作の場を設定した石坂の慧眼に、私は心底、驚嘆する。この図式は日本を超えているからである」。

 石坂洋次郎に関して、「さらに詳しく知るための参考文献」で三浦が挙げているのがモーリス・ブロックの『マルクス主義と人類学』だ。

 

モーリス・ブロック『マルクス主義と人類学』(山内昶・山内彰訳、法政大学出版局、1996)……「ロンドン・スクール・オヴ・エコノミクス」の人類学者ブロックはマルクス主義者だが、祖母がデュルケームの姪で、したがってマルセル・モースが従兄にあたるが、出自は争えないというべきか、その『マルクス主義と人類学』は、小著にもかかわらず、マルクス主義民俗学の対立図式を理解するのにたいへん役に立つ。ヘロドトス司馬遷を思えば歴史学民族学も人類学も根は一つなのだが、近代に入って歴史が科学へ、進化論へと引き寄せられるにつれ、人類学はその出自と言っていい民俗学すなわち解釈学(数直線的歴史の否定)へと引き寄せられてゆく。というよりそれが人間という現象の特徴なのだ。解釈に最終的な正解(永遠の心理)はない。必要なのは役に立つ暫定的な(運動としての)解だけなのだ。ブロックは、マルクス主義はこの問題を「アジア的生産様式」問題(エマニュエル・トッドの歴史人口学すなわち家族史問題の本来の場所)として抱え込み、20世紀を通してそれに悩まされ続けた、という事実を浮き彫りにしている。立場は違うが、問題の所在を的確に指摘している。

 

 三浦の石坂洋次郎紹介は見事だが、それと真逆でひどいのが、新保祐司小林秀雄だった。岡本太郎は佐々木秀憲が書いているが、佐々木は元岡本太郎美術庵の学芸担当係長だったので、岡本太郎の社会的側面などは詳しく書いているが、太郎の芸術的評価には触れていない。人気と芸術的達成がこんなに懸け離れていることに。

 最後に山本昭宏が全共闘についてコンパクトにまとめている。

 下巻を読むのが楽しみだ。

 

 

 

中島らも『中島らもの特選明るい悩み相談室 その1 ニッポンの家庭篇』を読む

 中島らも中島らもの特選明るい悩み相談室 その1 ニッポンの家庭篇』(集英社文庫)を読む。昔朝日新聞に連載し、それを朝日新聞文庫7巻にまとめたのを再編集したもの。

 

夫と娘のおそろしい商談

【問】  「おっぱいさわらせて」

「500円くれたら」

「200円にまけて」

「もう一声!!」

 このおそろしい会話はなんと主人と小学校5年の長女のものです。こんなとき私は妻として、母として、どんな態度をとればよいのでしょうか。

        (神戸市・ただなのにさわってもらえない妻・36歳)

【答】  お手紙を拝見しまして、最初はア然とし、やがてその驚きが激しい怒りに変わってくるのを覚えました。

 高い。あまりに高すぎます。

 いったい何を価値の根拠としてそれほどの無謀な価値設定ができるのでしょうか。

 おそらく手紙から判断するに、その200円というのは「ひとフサ」の値段だと思いますが、百歩ゆずってこれが「ふたフサ」であってもまだ納得のいく値段ではないいと考えます。お嬢さんは小学生で多額のお年玉をもらったりするために、金銭に対する価値観が狂っている。つまりお金というものをナメているのではないでしょうか。(中略)

 親子なんだから水くさいことを言わずにタダにさせなさい。(後略)

 

 いや、小学校5年なら対価はゼロでしょう。

 

温水プールの放尿母子の悩み

【問】  家から歩いて5分の温水プールに、2年前から元気よく通っている女子高生です。温水プールに入るとあんまり気持ちがいいので、悪いとは知りながら「おしっこ」のたれ流しを平気で続けています。とはいえ、少々気になるので、やはりプール中毒の母に相談したところ「あっはっはっは。あんたも? 実は私もよっ……」。やめられそうもないのですが、母子でご相談いたします。よろしく。

        (東京・似たもの母子)

【答】  何というおそろしい母子だと目をむいてお怒りになる方がひょっとすると読者の中におられるかもしれません。しかしイエス・キリストはおっしゃいました。「この中で罪のない者があればこの女に石を投げよ」と。この「罪のない者」はそのまま「プールでおしっこをしたことがない者」という言葉に置きかえても、そうメチャクチャな差し障りはないのではないでしょうか。(多少の差し障りはあるでしょうが)。

 現に僕は石を投げられてもあたりまえ、というくらいこれをやっています。ひょっとすると自分だけかもしれないので、不安になって友人にたずねてみました。答えは「プールのおしっこ? ああ、あれはなかなかええもんや。僕は背泳ぎでその現場を後へ後へと遠ざけていきながら、移動しつつやる。そのときにカエル泳ぎの足でおしっこをかきまわして拡散させるようにする。これはつまり、エチケットや」というものでした。(後略)

 

 むかし友人がこれを銭湯でやると気持ちいいと言っていたのを50年ぶりに思い出した。

 

父と風呂に入る習慣をやめたい

【問】  先日大学で友人たちと雑談していて、私は笑い物になりました。私は父と一緒におふろに入っています。赤ん坊のときからいつもおふろは父と入っていて、それが自然のことと思っていました。でも、友人たちに言わせると、父親と一緒に入ったのはせいぜい小学校の低学年までだったというのです。私は目覚めました。もう父とおふろに入りたくありません。父を傷つけずにおふろに入らなくてすむ方法はないでしょうか。

        (大阪市・S・19歳)

【答】  (前略)確かに、19にもなって父親とおふろに入るというのは変わってます。でも、「変わってる」のは「普通」のことなのです。今さらあわてずに、堂々と一緒に入ればいいのです。

 

 「巻末エッセイ」で本上まなみが書いている。

 

 この「明るい悩み相談室」以外でも彼(らも)のどんな文章を読んでも「笑わせなあかん」という、宿命というか、業を感じてしまうのです。

 

 「笑わせなあかん」はいささか食傷する。続篇を手に取ることはないだろう。