赤瀬川原平『純文学の素』を読む

 赤瀬川原平『純文学の素』(ちくま文庫)を読む。40年ほど前に写真・エロ雑誌『ウィークエンド・スーパー』に連載したエッセイ。

 私が小学生のころの娯楽はラジオだった。ドラマのほかに寄席が娯楽の中心だった。私は落語は好きだったが漫才は嫌いだった。わざとあほなことを言って聴衆を笑わせるのが面白いと思えなかった。

 ここで太宰治の『人間失格』を思い出す。

 

 その日、体操の時間に、その生徒(姓はいま記憶していませんが、名は竹一といったかと覚えています)その竹一は、れいに依って見学、自分たちは鉄棒の練習をさせられていました。自分は、わざと出来るだけ厳粛な顔をして、鉄棒めがけて、えいっと叫んで飛び、そのまま幅飛びのように前方へ飛んでしまって、砂地にドスンと尻餅をつきました。すべて、計画的な失敗でした。果して皆の大笑いになり、自分も苦笑しながら起き上ってズボンの砂を払っていると、いつそこへ来ていたのか、竹一が自分の背中をつつき、低い声でこう囁きました。

「ワザ。ワザ」

 自分は震撼しました。ワザと失敗したという事を、人もあろうに、竹一に見破られるとは全く思いも掛けない事でした。自分は、世界が一瞬にして地獄の業火に包まれて燃え上るのを眼前に見るような心地がして、わあっ! と叫んで発狂しそうな気配を必死の力で抑えました。

 

 赤瀬川は写真・エロ雑誌のエッセイとして面白おかしいと思われることを書き連ねている。それは漫才のように過剰にあほらしいことを演技しているようだ。

 マツタケを食べてみると言うテーマでエッセイを書く。3,000円まで出してくれると言う取材費の予算で近所の八百屋にマツタケを買いに行く。でもまだ一度も買ったことがないのに「マツタケ下さい」と言えない。いったん帰宅して洋服を着替え高級な赤坂の八百屋までマツタケを買いに行く。やっと3本2,500円で買って領収書を切ってもらったが、帰宅すると肝心のマツタケをもらい忘れていたことに気づく。

 写真・エロ雑誌の読者向けに赤瀬川に面白可笑しいことを書かせようという末井編集長の企画が無理だったのだ。赤瀬川は難解だが面白いことを書けば成功するのに。

 

 

 

死ぬ前に誰に会いたいか

 先日友人二人とzoomで雑談した。その時一人の友人がいよいよ死ぬとなったらぜひ会いに来てくれと言った。私はそんな状態では誰とも会いたくないから来ないでくれ、もし最後の別れをするなら元気なうちに会いに来てくれと言った。

 その友人は元気で当分死とは縁がないように見える。かつて骨折と脊柱管狭窄症で長い間入院していたことがあった。骨折も脊柱管狭窄症も腰とかは痛むものの、頭は健康な時と変わらず、見舞いに行ったらとても喜んでくれた。

 私が見舞いを断ったのは、抗がん剤治療の経験からだった。私は食道がんと診断されてから抗がん剤治療で3回入院した。ステージ3と診断されて、がん細胞を攻撃して腫瘍を抑えるためだった。1回の入院は1週間で、入院翌日から抗がん剤を24時間点滴で入れて、それが6日間続く。退院して2週間自宅で過ごし、また1週間入院する。それを3回繰り返した。

 抗がん剤は危険な薬とかで、点滴薬を入れ替える時は必ず看護士が二人でやり、二人ともコロナの患者を看護するときのように完全防備の服装をした。点滴の薬も二人で復唱し確認していた。どうしてそんなに、と尋ねると危険な薬だからとのことだった。容量を間違えると大変なことになると。

 1週間の入院が終って退院するときはへろへろになっていた。入院する時は電車と徒歩で病院へ入ったが、退院するときは娘に介護されてタクシーで帰宅しなければならなかった。普通は入院する時が弱っていて、退院する時は元気を取り戻している。だから退院するのだが。

 抗がん剤治療の入院ではこれが逆だった。元気な状態で入院しへろへろになって退院する。抗がん剤はがん細胞を攻撃して小さくするのだが、同時に健康な細胞も攻撃されてしまう。生長する細胞が攻撃されるので、体毛の生長も爪の生長も止まる。口内炎がひどくなり、便秘や下痢も半端ない経験をする。歩行にも困難をきたす。

 抗がん剤治療の入院は3回が限度だと言われた。体が耐えられないと。その3回目の入院から退院するときは、本当に参っていた。帰宅してすぐベッドに横たわった。何も考えるゆとりがなかった。

 入院する時、ゆっくり本が読めるのではないかと何冊も持ち込んだが、そんなゆとりはなかった。

 退院したのが12月31日の大晦日で、正月3日に友人たちが浅草へ遊びにきがてら見舞いに行きたいと言ってくれた。即座に断った。友人とは言え、人と話すゆとりがなかった。家族に看病されるのが精いっぱいだった。ただただ寝ていた。3回目の抗がん剤治療から退院したこの時が最悪の健康状態だったのだ。

 この経験から、がんが悪化して亡くなる前の状態が容易に想像できた。友人とは言え、とても談笑する気分ではないと思う。だから、まだ元気なうちに会って話したいと思うのだ。

 ただ、今年の1月に亡くなった映画監督は、亡くなる1時間前まで病院で家族と普通に話していたという。そのような状態だったら、見舞いも受け入れられるかもしれない。

 冷たいようだが、私の経験したような状態では誰にも会いたくなかったのだ。

 抗がん剤治療を3回終えたあと、自宅療養を5週間行って元気を回復したところで手術を受けた。手術は食道を切り取るという大変なものだったが、抗がん剤治療の入院と異なって、体力をかなり回復して退院した。その後は一応順調に日常生活を取り戻している。抗がん剤による足の痺れという後遺症は残っているが。

 

 

櫻木画廊の酒井香奈展を見る

 東京上野桜木の櫻木画廊で酒井香奈展が開かれている(6月19日まで)。酒井は1969年茨城県生まれ、1992年に武蔵野美術大学造形学部油絵学科卒業、1994年同大学大学院造形研究科美術専攻油絵コースを修了している。2008年と2010年、2020、2021年年になつかで個展を開き、その他アートギャラリークローゼットや櫻木画廊、かわかみ画廊などで個展を開いている。

 今回、青い作品と赤い作品が素晴らしかった。

 昨年のギャラリーなつかでの個展のときの酒井のことば。

 

朝と夜、見えるか見えないかの色彩を何層も重ねる制作は昨日と今日、今日と明日をつなぐ、自分との文通のようである。朝の色彩に応える為に、夜、また新たな気持ちで画面に向かい、明日への問いかけをするように、絵の具を重ねていく。制作の間に、何かが見えかかっていても、次の日には、跡形もなく違う色彩で覆ってしまう事もある。

長い間やりとりした結果、最初に戻ってしまう事もある。昨日受け入れる事のできなかった色彩を今日は完成への手ごたえとして感じる事もある。そして明日はどう変化していくのだろうか。昨日、今日、明日、地図を持たない寄り道を楽しむような制作を今は心地よく感じている。

 



 何度も塗り重ねられた酒井の作品、じっと見ていると、その試行錯誤の経緯が見えてくるようだ。

     ・

酒井香奈展「いろをきく」

2022年6月8日(水)―6月19日(日)

11:00-18:30(最終日17:30まで)月・火休廊

     ・

櫻木画廊

東京都台東区上野桜木2-15-1

電話03-3823-3018

https://www.facebook.com/SakuragiFineArts/

JR日暮里駅南口から谷中の墓地を通って徒歩10分

東京メトロ千代田線千駄木駅1出口から徒歩13分

東京メトロ千代田線根津駅1出口から徒歩13分

SCAI THE BATHHOUSEの前の交番横の路地を入って50mほどの左側

TS4312のヴラディスラヴ・シュチェバノヴィッチ展を見る

 東京四谷三丁目のTS4312でヴラディスラヴ・シュチェバノヴィッチ展が開かれている(6月26日まで)。シュチェバノヴィッチ(愛称ワーニャ)は、1971年セルビアモンテネグロに生まれる。1994年チェトニェの美術学部を卒業し、2009年ベオグラード芸術大学学際的博士課程にて博士号を取得。現在ベオグラードの応用芸術学部でドローイングと絵画の教授。ヴェネチア・ビエンナーレにもセルビアを代表する作家として出品されている。TS4312では昨年に続いて2回目の個展となる。特に今年は日本セルビア友好140年記念事業の一環として取り上げられた。

 作家のことば、

 

娯楽と戦争の間」と名付けられた一連の絵画は、主にロシアのウクライナ侵攻と第三次世界大戦への導入にますます似ている世界的緊張の前に完成されたため、一種の予言的絵画と言えます。一方ではアプリ、ビデオゲーム人工知能が社会を形成し、子供たちを教育している一方で、他方ではそれが徐々に耐え難いアナログで物理的な現実となりつつあります。この状態は、2つの極端なものが1つのポイントに融合することに影響し、娯楽と戦争というセンセーショナルなもので私たちの時代を形成しているのです。まさに、この一連の絵画が提示しているのは、こうした問題なのです。 制作しているとき、理性的というより直感的に、絵の中のモチーフを押し付けるような不安を感じていました。Apps Store」という絵から始まり、「Patriot2」という絵で終わります。Apps Store」では、若い戦士の少年が現実から逃避するために仮想現実を見つけ、戦時中に出現した「Patriot 2」では、世界貿易センターへの攻撃、チョルノブイリ原発事故後の建物の粉々な跡、そしてウクライナ戦争の飛行機やプロパガンダをコラージュした断片を描いているのです。

Free Games

9(11)

Apps Store


 ワーニャは日本語も勉強しているとかで、「Free Games」という作品には日本語が描かれている。

     ・

ヴラディスラヴ・シュチェバノヴィッチ展

2022年6月3日(金)―6月26日(日)

13:00-19:00(15日までは月、水木金土日オープン、17日以降は金土日のみオープン)

最終日17:00まで

     ・

TS4312

東京都新宿区四谷三丁目12番地サワノボリビル9階

電話03-3351-8435

https://ts4312r.com/

東京メトロ丸の内線四谷三丁目駅1番出口から新宿に向って1分、セブンイレブンの隣のビル

 

 

山本弘の絵画の特質について

 来る6月15日は山本弘生誕92年の誕生日になる。これを機に山本弘の絵画の特質について書いてみたい。

 山本弘の絵画を理解するキーワードは3つある。「アル中」「アンフォルメル」「象徴派」だ。まず、アル中について。山本弘は15歳で終戦を体験し、それまでの軍国少年だった価値観が全否定された。初めヒロポン中毒に走り、ついでアルコール中毒に転じた。アル中は生涯続き山本を苦しめた。30代始めと40代始めの2回、アル中による脳血栓を患った。その結果手足と口が不自由になった。それまで流麗な線を描いていたのに、殴りつけるような線しか描けなくなった。絵が変わった。それまでの、先輩からお前は筆が走り過ぎると言われていた達者な絵が描けなくなった。その手が不自由になってから、山本弘の独特の優れた絵が始まった。

 ついで、アンフォルメル山本弘は、最初私が会った時、好きな画家はモジリアニ、スーチン、長谷川利行ゴッホなどと言っていた。確かにモジリアニ張りの顔の細長い女性像や、スーチンを思わせる作品も描いていた。長谷川利行のモチーフをなぞったような黄色い顔の女とか、利行に触発されたような作品も多く見られた。そのころ、抽象には熱い抽象と冷たい抽象があるが僕は熱い抽象だとか、僕はタッシスムだとか言っていた。アンフォルメルという言葉は使ったことがなかったが、どちらもアンフォルメルの用語だ。さらに晩年の作品は中央に描かれた人物の顔を厚塗りし、周囲の絵具は薄く、塗り残しも目立った。これはフォートリエの作品「人質の首」を思わせる。フォートリエのこの作品はブリジストン美術館(現アーチザン美術館)が所蔵していて、『芸術新潮』に何度も紹介されていた。飯田市立図書館に勤めていた司書の方が、山本さんはよく『芸術新潮』を見ていたと話してくれた。また、山本弘の「塀」という作品には白い板塀が描かれているが、板塀の下端には子供の落書きが描かれている。これはアンフォルメルの画家デュビュッフェを思わせる。

「塀」

 最後に象徴派。山本弘に「銀杏」という作品がある。私が推測するに、これは奥村土牛の『醍醐』の構図を引用したものに違いない。土牛は『醍醐』で華麗な醍醐寺の満開の桜を描いたが、それを引用して山本弘は、自分の生涯に華やかなものは全くない、夜の公園の一角に立つ地味な銀杏のようだったと考えたのだろう。しかし、その銀杏はどっしりと力強く立ち圧倒的な存在感を示している。

「銀杏」

 また「流木」という作品がある。これは濁流を流れる白い流木が、血の河のような世間を流された儚い自分だったと顧みているかのようだ。作品を描きあげた時、8歳だった娘にどう思うかと聞いた。娘が血の海みたいできれいだと答えたら、ものすごく嬉しそうな顔をしたという。自分の意図が理解されたと思ったのだろう。

「流木」

 「窓」という作品がある。画面の右端に人が立っていて、夕暮れの明るい窓を見つめているかのようだ。しばしば荒れて家庭を顧みなかった山本弘が、一方穏やかで明るい家庭を憧憬していたかのようだ。

「窓」

 このように山本弘は自分の生活や思いをテーマに作品を作っている。象徴派と呼ぶ所以である。

 また、山本弘は早描きだった。それは山本が描きながら作品を作るタイプではなく、描く前にすでに頭の中に作品が出来あがっていたと思われるからだ。山本に「黒い丘」という作品がある。作品の左端の真ん中に四角いベージュの窓が描かれている。この窓は作品にとって重要で、窓を隠すと作品が変わってしまう。ところがこの窓は黒い絵具の上に描き加えられたものではなく、ベージュは下に塗られており、黒い絵具は窓を塗り残して描かれている。つまり、黒い絵具を塗るときに、すでに全体の造形が見えていたのだろう。

 

黒い丘

 

 このように山本弘はすでに頭の中にある造形をキャンバスに写しただけなので、早描きだったのだ。最晩年の数年間で400点の油彩作品を描いたのは、このためだった。