東京画廊+BTAPの朴栖甫展を見る

 東京銀座の東京画廊BTAPで朴栖甫(Park Seo-Bo)展が開かれていた(5月7日まで)。ギャラリーのホームページより、

 

朴栖甫(Park Seo-Bo)は1931年、韓国の慶尚北道醴泉生まれ、1954年に弘益大学美術学部絵画科を卒業し、モノクロームの線画や韓紙の質感を活かした作風を発展させました。韓国現代美術の先駆的存在であり、単色画(Dansaekhwa)を代表する作家です。(中略)

初期の作品では、まだ乾いていない単色の絵の具の表面に鉛筆の線画を描いていましたが、後期の作品では、韓国の伝統的な和紙である韓紙を重層的に用い、指や器具で表面に縦線を入れて幾何学的な起伏を作ります。こうして生まれる形態や色彩の限定性はミニマルアートを思わせるものですが、「描く」ことを通じて反復的行為を写し取ってゆくその作品は、西洋のコンセプチュアル・アートとは異なる経路を通じて、ある精神性へと至る試みと言えるでしょう。

 


 韓国の現代美術の主流である単色画の画家だ。単色画とはやはりミニマル・アートの一種だろう。単純な形態で色彩も名前の通り単色だ。だが、ミニマルでありながら、ミニマルに徹していない。画面に変化を付けている。

 ミニマルに徹するのは難しいのかもしれない。何もしないのは作品にならないと思ってしまうのだろうか。そのあたりは難しいところだ。

 なお、画像は東京画廊のホームページから借用した。

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朴栖甫(Park Seo-Bo)展

2022年3月26日(土)―5月7日(土)

12:00―18:00(日・月・祝 休廊)

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東京画廊BTAP

東京都中央区銀座8-10-5 第4秀和ビル7階

電話0 3-3571-1808

https://www.tokyo-gallery.com/

 

 

浅野貞夫植物生態図という絵葉書

 「浅野貞夫植物生態図」という絵葉書がある。精密な線描で植物の生態を描いている。浅野貞夫は植物学者で、文章なしで植物を表現することを心掛けた。地上部はもとより、花や果実、種子、地下部までを1枚の図に描き表わした。そのために時に何年もかけて図を完成させた。

 ここにそれを絵葉書にしたものを紹介するが、原画はB4判ほどの大きさだ。

オミナエシ

カタクリ

イソギク

ツワブキ

ジュウニヒトエ

トチノキ

ワダン


 これらの図版を集大成したものが、『浅野貞夫日本植物生態図鑑』(全国農村教育協会)という大著だ。この本と浅野貞夫については下記に紹介したことがある。

 

・植物学者浅野貞夫の憂鬱

https://mmpolo.hatenadiary.com/entry/20071011/1192054836

 

・浅野貞夫がなぜ「植物生態図鑑」の刊行を中断したのか?

https://mmpolo.hatenadiary.com/entry/20070418/1176850737

 

 

 

 

坂井律子『〈いのち〉とがん』を読む

 坂井律子『〈いのち〉とがん』(岩波新書)を読む。副題が「患者となって考えたこと」。坂井はNHKのプロデューサーとして活躍していた2016年、突然膵臓がんだと診断される。東大病院の肝胆膵外科に入院する。手術時間8時間、膵臓のがんはすべて取り切ることができた。

 しかし、手術はゴールではなくスタートラインだった。術後、ICUから病室に戻るが、猛烈な痛みと下痢がすさまじかった。多いときは1日15回以上かそれ以上の下痢に襲われた。ひどいときには10分と落ち着いてベッドに座っていられないので、友人たちの見舞いも断った。再発予防の抗がん剤治療が始まった。

 術後の病理検査で切除済みの離れたリンパ節に転移が見つかり、術後のステージはIVaとなっていた。

 翌2017年、肝臓への転移が見つかる。抗がん剤が経口摂取から点滴に変わった。

 

 まず驚いたのは初回投与の際に看護士がベッドのわきで防護服を身に着け始めたことだった。通常の看護服の上から、全身の防護服、目を保護するグラス、手袋など。大げさに言えば原発事故後の除染作業用の防護服のようであり、「毒」を実感させるものだった。

 

 この抗がん剤治療は効果があり、その年の年末に再手術を受けた。手術は成功した。だが、2か月後、肝臓とリンパ節への多発転移がわかった。何もしなければ残された時間は3カ月と言われる。

 坂井は2004年に亡くなった父のことを思い出す。父は胸腺腫になり4年間闘病して71歳で亡くなった。抗がん剤を投与し、一時は寛解したが、1年弱で多発肝転移をした。自宅へ戻った父は1カ所だけ行ってほしい所があると言った。それは胸腺腫に新しい治療法を試みている静岡県のある病院だった。しかし、その病院の治療法は父には適応にはならなかった。父は3カ月半家で過ごして亡くなった。

 「あとがきにかえて」で坂井は書く。「この本は、再々発がわかった2018年2月から11月までの間に書き綴った、がんに罹った「私」の記録である。そう書きながら、再々発後の治療についてはもう詳しくは書かれていない。Wikipediaによれば、坂井は2018年11月26日に58歳で亡くなっている。

 父の闘病とその後の死が、坂井自身の闘病とその死の隠喩になっている。坂井自身はもう己の死を綴ることはなかったのだから。

 

 さて、私も2020年10月に食道がんステージIIIと診断され、築地のがん研究センターに入院した。点滴による抗がん剤治療を3回受けた。5日間24時間点滴を受け、退院して3週間自宅療養した。退院直後は歩くのもしんどいくらい弱っていた。下痢もひどく、トイレに間に合わなくて下着を汚したことも数回あった。病室で他の患者の前で粗相をした時など、この年になってプライドが徹底的に打ち砕かれた。自宅療養で体力を回復し、再び入院して抗がん剤治療、それを3回繰り返した。看護士は「通常の看護服の上から、全身の防護服、目を保護するグラス、手袋など」着用し、抗がん剤が毒であることを推測させた。副作用も強く、脚のしびれはいまだに続いている。抗がん剤はがん細胞を攻撃するが、同時に健康な細胞も攻撃するのだ。

 3回の入院のあとへろへろになって退院し、自宅療養を5週間続けて、その後手術を受けた。食道がんと診断された時、手術を受ければ5年後の生存率は50%と言われた。その時、もう72歳だから、その宣告は受け入れようと覚悟した。そして終活に励んだ。

 がんになって良かったことは、自分のおよその寿命が分かったことだった。それまで、何となくいつまでも生きているような気分でいた。人は必ず死ぬのだから、自分の寿命がこのくらいでも何の不思議もない。受け入れようと思った。好きなことをして生きて来て、もうほとんど思い残すことはない。

 坂井のこの本はとても有益だった。覚悟を再確認させられた。がん患者は読むべきだと思う。

 

 

 

『ドライブ・マイ・カー』の濱口竜介監督に対する蓮實重彦の評価

 蓮實重彦が『ちくま』2022年5月号の連載エッセイ「些事こだわり」にアカデミー賞濱口竜介について書いている。

 

……アカデミックな姿勢とはいっさい無援の、その呼称にはまったくふさわしからぬ年に一度のハリウッドの映画的かつ空疎きわまりない祭典には、いっさい興味というものがわかない。そもそも、アカデミー賞とは、誰の目にも屈辱の歴史にほかならぬからである。超一流の、それもハリウッドというよりは世界が評価する大監督にほかならぬラオール・ウォルシュも、ハワード・ホークスも、あのアルフレッド・ヒッチコックでさえ、一度としてオスカーを手にしていないのだから、アメリカ映画アカデミーなるものがいかにアカデミックな精神を欠いた人材からなっている出鱈目な組織であるかは、誰の目にも明らかである。

 また、そこにはいくぶんかは個人的な趣味を介入させてもらうなら、美貌においても画面におけるその豊かな存在感においても他を圧倒していたあの大女優のエヴァ・ガードナーが、ジョン・フォードの『モガンボ』(1953)でたったの一度だけ主演女優賞にノミネートされたにとどまり、当然それにふさわしい演技を見せてくれたマンキ―ヴィッツ監督の『裸足の伯爵夫人』(1954)でも、ジョージ・キューカー監督の『ボワニー分岐点』(1956)でも、アカデミー会員たちからはひたすら無視されたのだから、その選考の出鱈目さは誰の目にも明らかだろう。

(中略)

 実際、濱口監督の問題の作品については、あまり高い評価を差し控えている。とはいえ、それは、この作品の原作が、「結婚詐欺師的」と呼んで心から軽蔑している某作家の複数の短編であることとは一切無縁の、もっぱら映画的な不備によるものだ。妻との不意の別れをにわかには消化しきれずにいる俳優兼演出家の苦悩を描いていながら、問題の妻を演じる女優に対する演出がいかにも中途半端で、それにふさわしい映画的な存在感で彼女が画面を引きしめることができているとはとても思われなかったからだ。

 亡き妻の録音された声を聞きながら、主役の西島秀俊があれこれ思うという重要なシークエンスは素晴らしい。ここの場面にとどまらず、西島秀俊はみずからが途方もない演技者であることを、画面ごとに証明してみせている。だがそのとき、見ているものは、彼の妻だった女優の顔をありありと記憶に甦らすことができないのである。

(中略)

 最後に繰り返しておくが、濱口竜介監督の『ドライブ・マイ・カー』は決して悪い映画ではない。個人的には『寝ても覚めても』の方を好んでいるが、これだって決して悪い作品ではない。また『偶然と想像』(2021)も素晴らしかった。ただ、どれもこれも水準を遙かに超えている濱口竜介の作品といえども、現在の時点で、青山真治監督の傑作『EUREKA ユリイカ』(2001)の域にはまだ達していないと言わざるをえない。

 

 

 

 

 

JINENギャラリーの生頼制作所展を見る

 東京日本橋小伝馬町のJINENギャラリーで生頼制作所展が開かれている(5月15日まで)。生頼(おおらい)制作所とは、オーライタローとおおらいみえこ夫妻が2014年より始めた家内制美術団体の名称。つまりオーライタローとおおらいみえこ展を意味している。二人とも武蔵野美術大学で学び、のち銅版画を古茂田杏子に学んでいる。

 オーライタローは看板建築のある古い商店のファサードを油彩や銅版画で描いている。ちょっとノスタルジーを感じさせる風景だ。以下、オーライタローの作品を紹介する。



 おおらいえみこは普段、相撲や動物などをファンタジックに描いている。今回はレリーフ状の陶作品でUFOも展示していた。以下おおらいえみこの作品を紹介する。


 生頼制作所展は今回が16回目になるという。

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生頼制作所展Vol.16「路地から宇宙(そら)へ」

2022年5月3日(火)―5月15日(日)

12:00-19:00(金曜20:00まで、最終日16:00まで)、月曜休廊

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JINENギャラリー

東京都中央区日本橋小伝馬町7-8 久保ビル3F

電話03-5614-0976

http://www.jinen-gallery.com