金井美恵子『〈3・11〉はどう語られたか』を読む

 金井美恵子『〈3・11〉はどう語られたか』(平凡社ライブラリー)を読む。購入してよく見たら、本書は9年前に朝日新聞出版から発行された『目白雑録5 小さいもの、大きいこと』のタイトルを変えての再発行だった。すでに1度読んでいたし、ブログにも紹介していた。それで購入して1年間本棚に差しておいたが、ようやく再読した。しかし、金井は何度読んでも面白い。

 本書は大震災後の2011年6月号から2013年5月号までをまとめたもので、大震災とそれに関連するマスコミの論調を終始厳しく批判している。興味深かったところを紹介する。

 

 私は、たまたま「KAWADE旅の手帖」(河出書房新社)の『深沢一郎』特集号に短いエッセイを書くことになっていて、『風流夢譚』という、「事件」を付けて呼ばれることになった小説が、「和歌」についての小説なのだということを書くつもりだったので、歴史的に短歌の頂点である筈の皇室の歌会始選者(日本的桂冠詩人とでも言うべき地位なのかもしれない)の書いた『わが告白――コンフェンシオン』(岡井隆著)を、とりあえず読むことにしたのだったが、(中略)

 さて、「週刊朝日」の書評欄に載っている書籍の写真には帯が取り除いてあるのでシンプルに見える『わが告白』は、陰影を強調したライティングで撮影した岡井隆の顔写真と「日本を代表する大歌人」云々といったコピーの印刷された帯が巻かれているのだが、内容は陣野俊史の言うとおり「読み出すと途中でやめられない。」あとがきに相当する253ページ目の「余白のためのメモ」には、11年の10月14日の正午、ミュンヘンのマリエン広場で昼食のことを考えながら作って、NHK学園の企画した旅の途中で開かれた歌会に提出したという、初々しさに思わずたじろぐ歌が引用されている。大歌人83歳の時の歌である。正直なところ、この歌は、たとえば朝日歌壇の選(他の新聞歌壇でも)に漏れるのではないかと不安になる。

 

  昼はまたソーセージかなって思ってたら人形時計が踊りはじめた

 

(中略)

……岡井隆は『わが告白』の「第四部 運命を抱きしめて」の中に、「大震災後に一歌人の思ったこと」の小見出しのもと、「どのような場合にも、言葉を見つけ出してなにかを言うのが、もの書きの因果な宿命」と考え「現実をあらわすのにふさわしい言葉を探して、さまよい歩いた」のであった。その結果、とりあえず、なのであろう詠んだ6首を次に引用したい。「東京にいて、テレビ画面で被災地の映像を見つづけるだけ」の老歌人が「さまよい歩いた」と書くのは、比喩的にふさわしかるべき言葉の探索を意味しているのだろうが、無残である。

 

  うつむいて部屋へ退いて来ただけだ魚(うお)、漁夫(いさりびと)、波が消えない

  計画停電の来ぬうちに書きとめる文字は乱れて行方知れずも

  書いてゐる己を常に意識して、しかも気づかひが常に空しい

 

 そして、原発3首

 

  原発はむしろ被害者、ではないか小さな声で弁護してみた

  原子核エネルギーへの信頼はいまもゆるがずされどされども

  原子力は魔女ではないが彼女とは疲れる(運命とたたかふみたいに)

 

 原子力と魔女という言葉で思い出したのは、少女漫画家の萩尾望都の「プルート夫人」である。「この危険な人造の物質を人類がいかに愛し、固執してきたか」を放射性物質プルトニウムが絶世の美女となって現れるという自作のブラックコメディーに描いた彼女は「こんなに求められている物質って、人々の目にはマリリン・モンローレディー・ガガのような男性を悩殺する美女に見えているのかなあ、と思ったんです」と語り、厚底のサンダルをはいてほっそりした女郎グモ風デザインのダンサー風の露出度の高いコスチュームを身にまとった、しかし、植物的に見えるプルート夫人の絵がそえられているのだが――。

 

 山田洋次監督の寅さんシリーズについて、

……たとえば、あの寅さんの義弟の未組織労働者の熟練印刷工(シリーズを通して、この工場が何を印刷しているのか、結局は不明であった)が、妻とその叔母が夕食の支度をしているかたわらで、ちゃぶ台に向って、岩波書店の「世界」を読んでいる、といった程度の描写は画面から見えるが、とらやの隣りの印刷工場の道路に面しての位置関係が何度見ても決してわからない(あの工場(人はどうやって出入りするのだろう?))セットしか、山田の属している映画会社が作れないのはともかくとして、最新作『東京家族』が、ルーティン・ワーク化した、驚きというものの極度に少ない描写によって好評であるらしい監督は、『わがイワン・ラプシン』について次のように書いていたのだった。(以下略)

 

 金井美恵子の『目白雑録』シリーズは、朝日新聞出版の『一冊の本』に連載され、同社から単行本が発行され、後日朝日文庫になっていたが、4巻と5巻は文庫化されなかった。そこで平凡社がこの『目白雑録』5を、「平凡社ライブラリー」に組み込んだのだった。平凡社さん、ありがとう。

 

 

 

 

コバヤシ画廊の前本彰子展を見る

 東京銀座のコバヤシ画廊で前本彰子展「極楽水宮」が開かれている(5月7日まで)。前本は1957年石川県に生まれる。1980年京都精華短期大学絵画専攻科卒業、1982年Bゼミスクール修了。1983年よりコバヤシ画廊をはじめ個展多数。

 画廊の中央に大きなドレスが展示されている。圧倒される存在感だ。「極楽水宮 翡翠姫」と題されている。サイズの大きさが、単なるサイズの問題に収まらず質的な意味の変容を示している。

 壁面には「深海のアネモネ」と題されたレリーフ状の作品が展示されている。いつものホワイトキューブの画廊空間がちょっとおどろおどろしい空間に変わっている。


 女性作家らしい造形だ。いや、女性作家らしいという言い方は、そのことに特別価値を込めていない”価値ニュートラル”な表現であり、大きな特性の一つだと思う。

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前本彰子展「極楽水宮」

2022年4月25日(月)―5月7日(土)

11:30-19:00(最終日17:00まで)日曜休廊、祝日開廊

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コバヤシ画廊

東京都中央区銀座3-8-12 ヤマトビルB1

電話03-3561-0515

http://www.gallerykobayashi.jp/

 

 

津野海太郎『編集の提案』を読む

 津野海太郎『編集の提案』(黒鳥社)を読む。津野の編集に関する古い文章を編集の宮田文久が拾い出して1冊にまとめている。津野は50年ほど前、演劇集団68/71(後の黒テント)の演出を手掛け、また晶文社の編集者として晶文社の出版方針を先導したという印象がある。また『本とコンピュータ』の編集長として、DTPをいち早く取り上げたのではなかったか。高橋悠治との『水牛通信』は名前だけ知っていたが読んだことはなかった。

 座談会などから原稿にする「テープおこしの宇宙」は興味深かった。私も仕事でテープ起こしを依頼したことが何度かあったが、こんなに奥深いものだとは知らなかった。

 座談会について、デューク大学フレデリック・ジェイムソン教授の発言を引いている。「私が思うのは、私はこれに類するものをよく読んでいるとは言えませんが、それでもアプリオリに、座談会は真剣な論争を許容しない形式ではないか、ということです」。

 

 このジェイムソンの発言を受けて、テツオ・ナジタ、マサオ・ミヨシ、ハリー・ハルトゥニアンといった出席者たちも、座談会はコンセンサスのない場所にコンセンサスの見かけをつくりだす方法である、という意味のことをズケズケと口にしている。ようするに座談会形式にたいしては批判的なわけで、酒井の見解よりも、どちらかといえば、こちらの意見のほうがここでの議論の基調になっていると私には感じられた。

 

 この酒井の見解というのは、酒井が「現在、米国でも座談会という討論、対話、議論の形式についての知的関心が高まってきており、座談会に対応する文学ジャンルが存在しないことから、ZADANKAIという語そのものを名詞として導入しようという試みが一部でなされている」との発言を引いている。

 私も座談会という形式に対しては積極的な価値を認めがたいという見解に賛同するものだ。なお、ここで名前の出たテツオ・ナジタはハワイ出身の日系の歴史学者だが、彼に日本語を教えたのが鶴見大学の新山茂樹教授だった。新山はほかにも村上春樹の英訳者ジェイ・ルービンに日本語を教えている。

 新山が優れた学識を持つにも関わらず知る人が少ないのは、鶴見大学の教授だったからに違いない。良妻賢母を育成するという大学の方針から、優れた弟子が育たなかったのだろうと思う。同じく優れた画家だったのにも関わらず知名度がイマイチだった酒匂譲も家政大学の教授だったため、教え子たちが画家になることなく家庭に入ってしまい、日本の画壇で酒匂を押す画家が少なかったことによることと、相似だと思う。

 津野が『子供!』というインタビュー集を作ったとき、すでに小学生のときから、女の子たちが人間関係――つまり友だちとか親とか先生とかの関係につよい関心をもっていて、表面に見えるものの裏を読む、さらにそのまた裏を読むといった繊細な技術にびっくりした覚えがある、と津野は言う。その点に関する限り男の子たちはまったくの無能力。女の子たちに一方的に内心を読まれているだけでじぶんから人間関係の奥ふかいところを読みとこうとする意欲がほとんど感じられない。

 そのかわりに男の子たちが関心をもっているのは、昆虫とか切手とか鉄道とかのモノ。もしくは野球とか釣りとか剣道とかのスポーツ。自分が熱中しているモノやスポーツの話題になると、おもたい口がようやくほころびはじめる。

 そのあとで『家族?』というインタビュー集をつくって、同じ傾向が大人になってもそのままつづいていることに気づいた。家族という関係についての意見や感想ではなく、特定のとき、場所で、じぶんたちの関係に何が生じたのかを、できるだけ具体的に話してもらおう。そう考えてインタビューをはじめたのだが、男というのは、この手の質問にはまったく対応できない。モノやスポーツに関してはあいかわらず饒舌だが、仕事を離れて、ひとりの人間として家族や他人たちと結ぶ関係については、具体的なことがどうしてもうまくしゃべれないようなのである。そのかわり、どんな話もすぐ「意見」になってしまう。しかも、どれも最近の新聞やテレビで読んだり聞いたりしたことがあるような意見や概括ばかりで、じぶんの生活のなかでジックリたしかめてきたという手応えがない。

 この辺り、私も同じなのだろう。

 植草甚一に本を出版させたのも津野海太郎だった。片岡義男には雑誌『ロンサム・カウボーイ』に小説を連載させた。平野甲賀をさそって雑誌や晶文社の書籍の装丁を任せた。津野海太郎の出版における影響力は小さなものではなかったと思う。しかし津野を編集者として位置付けるのは少しずれているのではないか。編集者という裏方ではなく、やはり表舞台の人という印象が強いのだ。

 本書の裏表紙にごく小さなマークがあって、「取引代行TRANSVIEW」とある。でもその名前は奥付にはない。黒鳥社発行とあるだけだ。おそらく黒鳥社は取次に口座を持っていないので、トランスビューが販売を代行しているのだろう。

 

 

編集の提案

編集の提案

Amazon

 

春の連休に向島百花園を訪ねる

 春の大型連休に東京墨田区向島百花園を訪ねる。最初にセッコクが咲いていた。藤、紅色のウツギ、卯の花ヒメウツギ芍薬コデマリムラサキツユクサ、睡蓮、ムラサキセンダイハギ、アヤメ、セイヨウサンザシなどが咲いている。

 むかし、ふ化したばかりの子亀たちが行列を作って池に向かっていたのを見たことがあった。その後そんな僥倖には出会えていない。連休2日目だったが、意外に人出は少なかった。

セッコク

ウツギ

ヒメウツギ卯の花

芍薬

コデマリ

ムラサキツユクサ

アヤメ

ナンジャモンジャノキ(ヒトツバタゴ)

 

 最後のナンジャモンジャノキ(ヒトツバタゴ)は向島百花園ではなく近所の公園で撮影したもの。ナンジャモンジャの大木は御徒町駅近くの公園でいつも見事な花を咲かせていた。

 

向島百花園

https://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index032.html

 

 

ギャラリーαMの高柳恵里展を見る

 東京東神田のギャラリーαMで高柳恵里展「比較、区別、類似点」が開かれている(6月10日まで)。高柳は神奈川県生まれ。1988年に多摩美術大学大学院美術研究科を修了し、1990−1991年イタリア政府給費留学生としてミラノ国立美術学院に留学している。現在多摩美術大学教授。先月表参道のギャラリーMUSEE Fでも個展を行ったばかりだ。

 ギャラリーには高柳特有の変な作品が展示されている。ほとんどが日常で見かける物体だ。切り取られた樹木の枝と剪定鋏、剪定鋏の写真、戸棚の棚板、机と椅子、ハンカチ、2リットル入りのペットボトル(サントリー天然水)、ポリシートに泥、カーペットにポリシート、床材の見本。

棚板

ハンカチ

ペットボトル

ポリシートに泥

カーペットにポリシート、泥

床材の見本


 こんなものが作品なのか、という驚き。いつもながら高柳は何を狙っているのだろう。床材の見本とかペットボトルとか、ほかのものも、作品が本来まとっているオーラがない。それらは他の同じようなものと取替え可能なものばかりだ。作品は本来取替えのきかない唯一のもので神々しいオーラをまとっている。そのオーラが全くない。

 高柳は作品からオーラを剥奪しているのだろうか。デュシャンのレディ・メードをもっと徹底して・・・。

 先月のMUSEE Fでの個展の折りのホームページに掲載された言葉を再度引く。

 

「日常生活における物に向き合い、そのありように加える操作とも呼びがたい微細な作用によって作品を制作し続けている髙柳恵里」。

 

現代美術をリードし続け確かな地位を固めた髙柳。その作品と向き合う時、はじめは戸惑いを感じるのにしばらく対峙する事で見えてくるものがある。作家髙柳の感覚や感情が作品に移入されていることに気づかされる。その腑に落ちるような感覚こそが美術鑑賞の醍醐味であるかもしれない。日常にある品々の美しさ、ひいては日常の自分自身のものの見方そのものの再発見ともなるであろう。

 

 高柳の展示はいつも難しい。

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高柳恵里展「比較、区別、類似点」

2022年4月16日(土)―6月10日(金)

12:30-19:00(日月祝日休廊)

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ギャラリーαM

東京都千代田区東神田1-2-11アガタ竹澤ビルB1F

電話03-5829-9109

https://gallery-alpham.com/