酒井忠康『美術の森の番人たち』を読む

 酒井忠康『美術の森の番人たち』(求龍堂)を読む。世田谷美術館長酒井が、36人の美術関係者を描いている。美術関係者というのは、美術館の学芸員や館長、美術批評家、画廊主らだが、神奈川県立近代美術館で酒井の上司だった土方定一は他のところで詳しく語ったからと外している。また亡くなっている人に限っているようで、神奈川近美の同僚たちについても載っていない。

 数ページで故人を紹介しているので、批判的なことやマイナスの業績には触れていない。それが物足りない気もするが、同時にとても気持ちの良い紹介になっていて、読んでいて楽しかった。

 真木田村画廊主だった山岸信郎氏のことが書かれていて懐かしかった。神田の路地の奥にあった画廊に毎週通っていたことがあった。店番をしていた奥さんが野良猫にエサをやっていた。画廊を閉じたあと、山岸さんは韓国へ行って美術を教えていたが、あるときSPCギャラリーで会ったことがあった。帰ってきたのですかと訊くと、女房が具合が悪くなってと答えられた。山岸さん亡くなってもう12年も経つのか。

 ツァイト・フォト・サロンの石原悦郎さんも亡くなって4年経ったという。長く三越前で画廊を開いていたが、何年か前にブリジストンの裏手のビルに引っ越した。奥さんは高円寺でイル・テンポというやはり写真専門のギャラリーを開いていた。夫婦で好みの写真家が違っていたように見えた。

 評論家の針生偉一郎さんと瀬木慎一さんには個人的に世話になった。

 気持ちの良い読書だった。

  ※表紙の絵は世田谷美術館が所蔵している村井正誠

 

美術の森の番人たち

美術の森の番人たち

  • 作者:酒井忠康
  • 発売日: 2020/10/09
  • メディア: 単行本
 

 

 

 

藤森照信著『藤森照信 建築が人にはたらきかけること』を読む

 藤森照信著『藤森照信 建築が人にはたらきかけること』(平凡社)を読む。平凡社の「のこす言葉」というシリーズの1冊。藤森が自分の歴史を語っているとても分かりやすい自伝。

 藤森は現茅野市の山間の小さな村に昭和21年に生まれた。そこは小さな扇状地にあって戸数70戸ほどの集落だった。藤森家は江戸時代は庄屋の分家で村ではそれなりの家だった。お父さんは長野師範(現信州大学教育学部)に行って教師になっていた。お母さんが上諏訪の出身で諏訪地方では一番大きい棟梁の娘だった。村の人にとって諏訪大社の信仰は疑うことのないものだった。藤森も自分の信仰は自然信仰だという。

 生まれた古い家を藤森が小学校2年の時に建て替えた。母のおじさんは建築家になっていたので、おじいさんの一番弟子だったおじいさんが作業をした。そのことと、建築家になったおじさんの息子、つまり年上の従兄が早稲田の建築に行ったりしていて、藤森が東北大学に入るとき建築の道を選んだ。

 高校時代文学に関心が高かった。大学の建築学科は施工ではなく設計する人の教育をもっぱらやっていることを知った。そこで文学への関心もあり、建築史をやろうと思った。歴史をやるなら近代建築(明治以降の建築)をやろうと思った。

 明治建築関係の卒論を書いて卒業し、村松貞次郎のいる東大大学院へ進んだ。そして近代建築史の通史を書こうと決めた。そのために3つの目標を立てた。「すべての資料を読むこと」、「建物を全部見ること」、「それらの建物に関連した主な遺族全員に会うこと」、それを同じ村松研究室の堀勇良さんと一緒にやった。

 藤森の言葉。 

建築家が設計する住宅は日本の住宅全体のわずか数パーセントで、あとはハウスメーカー工務店が作る住宅やマンションが大半を占めています。

 なぜか。住宅が無意識の器だから。一方、建築家が設計するモダニズム建築は意識の器です。(中略)

 (人間は)意識的な世界と意識的でない世界を行ったり来たりして、毎日なんとかバランスをとっている。意識的な世界を脱し、無意識の自分を受け入れてくれるのが住宅です。だから建築家個人の表現なんてあっちゃいけない。他人の表現なんて必要ない。そういうものとしてずっと住宅はあったし、今も基本的には続いています。

  とても楽しい読書だった。ところどころに挟まれる藤森設計の建物の写真も興味深い。たねやグループの「ラ コリーナ近江八幡」と「多治見市モザイクタイルミュージアム」はできれば行って見てみたい。

f:id:mmpolo:20210118095320j:plain

コリーナ近江八幡

f:id:mmpolo:20210118095415j:plain

多治見市モザイクタイルミュージアム

 

藤森照信 建築が人にはたらきかけること (のこす言葉)
 

 

松尾亮太『考えるナメクジ』を読む

 

 松尾亮太『考えるナメクジ』(さくら舎)を読む。松尾はナメクジの脳機能の研究者、その長い研究歴から、ナメクジは「論理思考をともなう連合学習」もこなすと断定する。論理思考ができるとは「A=BでB=Cであれば、A=C」といった理屈がわかる、ということですと、松尾は書く。

 ナメクジにも脳がある。脳の大きさは1.5mm角くらいで、ニューロンの数は数十万個、これはヒトの10万分の1程度だという。それでも、好きな野菜ジュースを飲もうとしたとき、苦い液体を口元に与えると、それ以降その野菜ジュースには近寄らなくなる。「パブロフの犬」と同じ連合学習だという。

 なるほど、そのことはよく分かった。ナメクジに脳があり、考えることができる。その考えるということの意味は何か。まさか主体があり、自分はこういう体験をしたということはないだろう。意識する主体があるとは思えない。考えるが意識しないということだろうか。無意識のうちにやっていることなのか。ヒトの胃腸の食物への対応とどう違うのだろうか。ヒトの胃腸は意識しないで食物に対応して消化している。食物とそうでないものを認知して食物を消化している。

 ナメクジがこの辺のヒントになりそうな気がするが、まだよく分からない。

 

 

 

考えるナメクジ ―人間をしのぐ驚異の脳機能

考えるナメクジ ―人間をしのぐ驚異の脳機能

  • 作者:松尾 亮太
  • 発売日: 2020/05/21
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

日本橋高島屋本館8階ホールの野見山暁治展を見る

f:id:mmpolo:20210116140709j:plain

f:id:mmpolo:20210116140729j:plain


 東京日本橋高島屋本館8階ホールで「100歳記念 野見山暁治のいま展」が開かれている(1月18日まで)。また6階美術画廊でも野見山暁治個展が開かれ、こちらは小品が並んでいる。

 野見山さんは100歳になった。その年でこれだけの大作の新作を並べるのは凄いことだ! しかもそれが過去の作品のコピーではなく、新しい展開を見せている。なんということだ! これこそ天才の仕事だ。野見山こそ日本の戦後最大の画家であると躊躇なく断言する。

 私は木曜日築地へ用事があって行った帰りに高島屋へ寄った。午後4時ころだったが、8階の広い会場に客は10名前後しかいなかった。コロナの緊急事態宣言が発せられたので止むを得ないかもおしれないが、勿体ないことだと思った。戦後日本の最高の作品が贅沢に並べられているというのに。

 展覧会はこの後、京都高島屋でも開催されるという。ぜひ多くの人に見てほしい。

     ・

「100歳記念 野見山暁治のいま展」

2020年1月9日(土)―1月18日(月)

10:00-19:00(最終日17:30まで)

     ・

日本橋高島屋本館8階ホール

入場料(一般)1000円

図録3300円

 

 

読売新聞書評委員が選ぶ2020年の3冊

 読売新聞書評委員が選ぶ2020年の3冊が読売新聞に発表された(2020年12月27日付け)。読売新聞の書評委員20人、それによみうり堂店主が3冊ずつあげている。都合63冊だ。そのうち、私が読みたいと思ったのが3冊だった。それを紹介する。

 

栩木伸明、アイルランド文学者、早稲田大学教授の推薦書

 

アレン・ギンズバーグ著『吠える その他の詩』(スイッチ・パブリッシング、1500円 柴田元幸訳)

 本書は1955年、閉塞した時代のアメリカで描かれた長編詩の新訳。人間らしくあろうとして傷ついた世を憂え、魂の地獄から持ち帰った愛を歌う声が今ますます切実だ。

藤森照信著『藤森照信 建築が人にはたらきかけること』(平凡社、1600円)

 この著者は日本近代建築の悉皆調査で知られ、縄文的宇宙観を生き、自然と人間をつなぐ建築を実践してきた人。インタビューによる自伝が痛快無比である。

  

  『吠える その他の詩』は50年以上前、諏訪優の優れた訳がなされている。たしかに半世紀以上経ったのだから新訳が出るのも十分意味があるだろう。どんな訳をされているのかぜひ読んでみたい。

 

尾崎真理子、早稲田大学教授・読売新聞調査研究本部客員研究員の推薦書

 

古井由吉著『われもまた天に』(新潮社、2000円)

 いつも遠くから眺めていた畏敬の作家は、未完となった遺稿の短編、その最後に鮮烈な一行を記して去った。衝撃はさめやらない。

 

 

 古井由吉は作家たちが高い評価を与えている。いままできちんと読んでこなかった。やはり読むべきだろう。

 

 

 

【新訳】吠える その他の詩 (SWITCH LIBRARY)

【新訳】吠える その他の詩 (SWITCH LIBRARY)

 

 

 

 

藤森照信 建築が人にはたらきかけること (のこす言葉)
 

 

 

われもまた天に

われもまた天に