高校の同級生のこと

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 3月29日の朝日新聞朝刊を開いて驚いた。高校の時の同級生が大きく取り上げられていた。「Reライフ」というページで、「輝く人 ノンフィクションライター 中澤まゆみさん(71)」とあり、彼女の経歴が詳しく載っている。その経歴、

 なかざわ・まゆみ 1949年長野県生まれ。雑誌編集者をへてノンフィクションライターに。世界各国で取材、「ユリ 日系二世NYハーレムに生きる」(文芸春秋)などを出版した。「おひとりさま」と介護者の視点で高齢者の様々な課題を掘り下げる著書を多数発表。「せたカフェ」共同代表。昨年秋には介護保険改悪反対を呼びかける署名活動の呼びかけ人となった。近著は「人生100年時代の医療・介護サバイバル」(築地書館)。

 彼女とは高校の2年と3年のとき同級生だった。高校を卒業して25年めに大きな同窓会があった。普段同窓会には出ないけれど、そこに参加して同級生たちと久しぶりに会った。その後たぶん私が誘って中澤さんと二人で新宿で飲んだ。そのとき彼女から、あなた本当に同級だった? 私全く記憶がないけど」と言われた。さすがにちょっとショックだったけれど、高校時代は3年間気を消して生活していたから、納得もした。高校時代は受験勉強にいそしむ同級生に溶け込めず、昼飯に天文クラブ(天文班といった)の部室に日参し、あとは図書館へ顔を出すくらいで同級生たちとあまり付き合いがなかった。
 親しくしていたやつがいないかといえば何人かと親しくしていた。一番親しかったのが1年の時の同級生の星秀雄君だった。星君とは文学好きな点で話が合った。われわれは映画も好きだった。しかし二人の趣味は微妙に違っていた。星は純文学でなく当時の言葉で中間小説的なものが好きだった。立原正秋は彼から勧められて読んだ。映画も私が吉田喜重大島渚やヌーベルバーグを好んだのに、星の好きな映画監督は増村保造だった。星の志望は将来シナリオライターになることだった。
 当時高校生が映画館に出入りするのは学校で禁じられていた。星はその禁を破って映画を観ていた。彼は養子だったが、その行動を厳しい養母から不良だと咎められ、養子縁組を解消された。星は鈴木の旧姓に戻された。
 裕福な星家と異なり鈴木に戻っては大学進学のために読売奨学生(読売新聞を配達して奨学金をもらって大学へ通った)の道を選ばねばならなかった。最初立教大学へ入ったが、同級生とあまりに価値観が違い過ぎて1年目に退学した。授業の後で同級生に喫茶店などに誘われても、夕刊を配達しなきゃと断ると、そんなのサボればいいじゃないかと言われたと憤慨していた。
 翌年早稲田大学へ入り直した。新聞配達を続け、早稲田に通いながら両国にあったシナリオライター研究所に通っていた。大学を卒業しても新聞配達を続け、いよいよシナリオライターの道に突き進んだ。
 あれは1972年の4月だったと思う。恐山へ旅行をする予定だが、その前に次の日曜日に会えないかと誘われた。野暮用があって断ったが、その時の電話が星=鈴木の声を聞いた最後になった。その恐山への一人旅行からついに帰って来なかった。お兄さん夫婦が東北へ何度も出かけて行方を捜したが何の手がかりもなかった。後にお兄さんは行方不明者として葬儀を出した。
 星は几帳面な男で不義理をするようなやつではなかった。旅行に当たって職場の友人たちからテントやシェラフを借りて行った。アパートもそのままだった。それは全く星らしくなかった。さらに旅行に出る前に彼はシナリオライターの道が開けつつあると言っていた。大手の映画のシナリオの共同執筆陣に誘われていると嬉しそうに話してくれた。行方不明になる動機が全くみつからなかった。
 私は彼が死んだことがどうしても納得できなかった。何年にも亘って繰り返し星のことを夢に見た。いつも高円寺駅などでばったり会い、俺はお前が生きていると思っていたよと毎回同じことを言った。
 行方不明になって10年以上経ってから、星と同級生だった友人が、あいつは北朝鮮に拉致されたのではないかと言った。それはきわめてありそうなシナリオだった。恐山から日本海沿いに戻ってきたとすれば、新潟とか途中で拉致する人間を探していた北朝鮮のスパイと遭遇し、奴らの眼鏡にかなったのではないか。真面目で頭がよく身内が少ないという条件が、日本語教師を探していたのならぴったりだった。
 行方不明になってからもう48年になる。今も北朝鮮で生活しているのかもしれない。どんなに姿が変わっていても私には分る自信がある。生きているなら会いたい。

 

 

 

 

ギャラリー Jyの染谷玲子展を見る

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 東京青山のギャラリー Jyで染谷玲子展が開かれている(4月19日まで)。染谷は1980 年、埼玉県生まれ。今回がこのギャラリー Jyでおそらく20回めのくらいの個展になる。私の好きな写真家だ。いつも若い女性のポートレートフィルムカメラで撮っている。
 今までに比べて背景の窓や器具などを取り入れたり、モデルの表情が豊かになったりしている。染谷に訊くと意図的にそうしてるという。染谷の写真がいっそう深化している印象だ。
 染谷は素人の女性に声をかけてそのまま街中でモデルになってもらい、フィルム現像と印画紙へのプリントをすべて自分で行っている。

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染谷玲子展「おもうところ」
2020年3月31日(火)―4月19日(日)
11:30−18:00(日曜日は17:00まで)月曜日休廊
     ・
ギャラリー Jy
東京都港区北青山2-12-23 Uビル1F
電話03-3479-6422
http://www2.odn.ne.jp/gallery-jy/
東京メトロ銀座線外苑前駅3番出口から徒歩2分
青山通りに面した旧ベルコモンズ(現在工事中)の右側路地を入って突き当りのビル

『シルヴィア・プラス詩集』を読む

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 ここに掲げた絵は、雑誌『ちくま』4月号の表紙だ。この下手なような女性の絵は小林エリカが描いた詩人シルヴィア・プラスの肖像。表紙裏にシルヴィア・プラスについて小林エリカが書いている。
 シルヴィア・プラスアメリカ生まれの詩人、小説家。才色兼備の女性で、うつ病を患い、自殺未遂の末、入院治療もした。イギリスで詩人テッド・ヒューズと出会い結婚。しかしテッドがアーシャ・ウィーヴィルと恋愛関係になったため、2人の子どもたちを連れてロンドンへ。小説『ベル・ジャー』を刊行したのち自殺。享年30歳。オーブンに頭を突っ込んでの一酸化炭素中毒自殺だった。
 テッドと一緒になったアーシャは、シルヴィアの残した2人の子どもとテッドとの間にできた1人の子どもを育てたが、テッドの情事が発覚して、4歳になる娘も道ずれにガス自殺した。享年40歳。
 小林がシルヴィアの詩「遺言」を紹介している。

平凡な柩などいらない 私が欲しいのは石の柩
(中略)
人々がやって来て もの言わぬ鉱石の間から
先祖を発掘する姿をじっと見つめていたい。
(中略)
私を偉大な人間だったと思うかしら。
生きた日々を果実のように砂糖漬けにして保存しておかなければ!
私の鏡は曇ってゆく――
(『湖水を渡って――シルヴィア・プラス詩集』高田宣子・小久江晴子訳、思潮社

 それで、『シルヴィア・プラス詩集』(思潮社)を読む。訳者の皆見昭が「解題」で書いている。「プラスは、二重三重の連想を生むイメージを駆使し、更に非常に豊かな音韻の技巧を用いる詩人であるので、その作品の翻訳にはいくつものヴァリエーションが可能である」。

 それは翻訳が困難だということだろう。本書から「父なき息子のために」という詩を紹介する。

きみはまもなく気がつくだろう、
きみの傍らに木のように育つ、ひとつの不在に。
死の木、色のない木、オーストリア産のゴムの木――
稲妻に去勢されて、葉も抜け落ちた木――幻影のようなもの、
それに豚の背のように鈍い空、まったく思いやりを欠いたもの。


でも今、きみは物言わない。
そしてわたしはきみの愚かさが、
その盲目の鏡がいとしい。のぞき込んでも、
わたしの顔が見えるだけ。それをきみはおかしがる。
梯子の横木を握るように


わたしの鼻にしがみついてもらうのは、わたしにとって嬉しいこと。
いつの日か、きみはよくないものに触れるかも知れない、
小さな子供の頭蓋骨、圧しつぶされた青い丘、畏怖に満ちた沈黙とか。
その日までは、きみの微笑がわたしの財産。


 皆見昭は「解題」で、シルヴィアは子供たちにミルクの用意をしておいてガス自殺したと書いている。オーブンに頭を突っ込んでガス自殺したのか。
 ごく些末なことだが、訳語についてちょっと。「占い板」に、「その昔は、いなごのように言葉が暗い大気を叩き/穀物を食いつくして、その穂を虚しく揺れるままに残したものだ」の「いなご」は「バッタ」とすべきだろう。穀物を食いつくすのはサバクトビバッタで、イナゴが食いつくすことはない。原語はlocustではないだろうか。
 「森の神」の「酔っぱらったおおばん鳥ののろい羽音だけが聞こえ」の「おおばん鳥」は鳥の語が余分だ。「オオバン」はクイナ科の水鳥で歩くのは苦手らしい。オオバンは標準和名だから、おおばん鳥というのは「ひばり鳥」とか「すずめ鳥」とか「つばめ鳥」みたいに違和感がある。

 

 


 

水野朝『詩集ラピス・ラズリ』を読む

 水野朝『詩集ラピス・ラズリ』(広瀬企画)を読む。本書を知り合いの画商さんから頂いた。水野は1945年生まれ、本書が10冊目の詩集となる。また水野は画家でもある。画家として作品を5万点以上作り、4千点作品を売ったと詩の中で書いている。
 水野は中学生のころから東京展を作った異色の日本画家中村正義に師事していた。おそらくそのような縁で羽黒洞で個展をしているのだろう。水野の詩は日記のような素朴なスタイルだが、なかなか面白い。「スパゲッティ」という題の詩はまさにレシピを書いたもので、レシピがそのまま詩作品になっている。今度私もこのレシピでパスタを作ってみよう。
 いくつかの作品を紹介したい。

 

  どん底

 

師中村正義が亡くなり
二年して両親が1カ月半の間に死んだ


伯母の態度
従兄弟の態度
両親の生きていた時とまったく変わり豹変していた
人間不信になっていた
今も続いているかもしれない


四十年たって
じっくり思いおこすと
自分の自立に役立ったかもしれない
人を信じなくなった
二人とも死んだので言えるが
こん畜生と思った


伯母の家には十年行かなかった
自分に近い人ほど豹変する

 奈良美智とも知り合いだったらしい。こんな詩がある。


   奈良美智


二ヶ月前、
はじめてスマホを買った
そこからスマホ
くぎづけになってしまった
奈良美智氏のツイッター
毎日読める
奈良氏が今考えていることが
即座に判る
奈良氏が三十歳のころ
ドイツに留学していて
ドイツに来てほしいと言って下さったこともあった
私は行かなかった
すぐ子宮摘出手術をしていた
四十四歳だった
今にして思うと
やはり
行かなくてよかったと思う
ドイツに行けば
私は絵を描くことを
やめていただろう
裏方に徹していただろう


中村正義先生は私を舞子として
最後まで「うしろの人」を
描き続けて下さった
奈良氏も、お鼻の低い、目の大きい
口はうすい女の子を
何枚も描いている
奈良氏ももうじき還暦になる

 そうか、中村正義の「うしろの人」のモデルは水野朝だったのか。
・中村正義「うしろの人」
http://www.toyohashi-bihaku.jp/?page_id=1148