ギャラリー砂翁の及川伸一展「-のようなもの―」を見る

 東京三越前のギャラリー砂翁で及川伸一展「-のようなもの―」が開かれている(11月16日まで)。及川は1949年東京生まれ。1980年から1992年まで独立美術に出品していたが、1992年からは個展を主な発表の場所としている。これまでギャラリー汲美、ギャラリーテムズ、ギャラリーゴトウ、ギャラリー砂翁&トモス、Shonandai My ギャラリーなどで発表してきた。

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 及川は具象的なものを嫌う。純粋に抽象的な形だけで作品を成立させることを目指していて、それは成功していると思う。いつの個展でもどの作品でも完成度が高い。およそ破綻というものがない。
 具体的な形に頼ることなく、しかし形を完全に手放すことなく作品化している及川の仕事は、とても貴重に思われる。最小限の形=形態=イメージでマンネリに陥ることなく制作を続けていくことは、おそらく端で見るよりはるかに大変なことなのだろう。
 ただ、いつも完成度が高いと書きながら、そのことに不平を言うのはおかしいが、時には及川の破綻を見てみたい気もする。
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及川伸一展「-のようなもの―」
2098年11月6日(水)−11月16日(土)
11:00−18:00(最終日17:00まで)日曜休廊
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ギャラリー砂翁
東京都中央区日本橋本町1-3-1 渡辺ビル1F
電話 03-3271-6693
http://saohtomos.com
地下鉄(銀座線・半蔵門線三越前駅A1番出口より徒歩3分

 

田村隆一『詩人の旅 増補新版』を読む

 田村隆一『詩人の旅 増補新版』(中公文庫)を読む。「増補新版」というのは、1991年の中公文庫版に「北海道――釧路」を追加したもの。旅行記で、他に隠岐、若狭、伊那、奥津、鹿児島、越前、越後、佐久、浅草、京都、沖縄が収録されている。
 このうち、「伊那――飯田・川路温泉」がわが故郷だ。田村は川路の開善寺に逗留する。開善寺は白隠と鉄斎の書画に富みと田村は書いているが、宮本武蔵の書もあるはずだ。そして、

開善寺のほとりに住む無欲にして高潔なる老画伯の、まるで庵室のようなアトリエへ行ってみよう。ザクロがころがり、モズが一緒に暮らしているアトリエ。それから老画伯と二人で、桑畠のあいだをぬい、薄暗い竹林をさまよい、小高い丘の上にのぼっていこう。シダや、ススキがはえている丘の上から、秋の伊那谷をながめてみよう。わたしたちの視線は、時又の天竜橋をわたり、美しい段丘に散在している、対岸の竜江の村落をつたわるだろう。「あれが仙丈です」――白髪の老画伯が、南アルプスの一角を指さすだろう。「秋が深くなると、あの山が紫色にかわるのです。ま、そのころまでいるのですな、ハッハハハ」

 田村はのちに「恐怖の研究」という長編詩にこの寺のことを書いている。

信州上川路の開善寺の境内で
僕は一匹の純粋な青い蛇を見た
ふるえる舌
美しい舌

 開善寺のほとりの庵室のようなアトリエに住んでいたのは関龍夫さんだ。わが師山本弘の先輩画家で山本も一目置いていた。来春には飯田市美術博物館で個展が予定されている。銅版画家の丹阿弥丹波子が戦時中飯田へ疎開していたとき油彩を習ったという。関さんの最初の奥さんは書家の日田井天来の娘さんだった。彼女の影響か関さんの油彩には書がコラージュされているものがあった。
 田村隆一が関龍夫と交流があったことが何か嬉しい。どちらも私が尊敬する作家だからだ。

 

詩人の旅-増補新版 (中公文庫)

詩人の旅-増補新版 (中公文庫)

 

 

ギャラリー椿の夏目麻麦展「-scape」を見る

 東京京橋のギャラリー椿で夏目麻麦展「-scape」が開かれている(11月16日まで)。夏目は1971年生まれ、1998年に多摩美術大学大学院を修了している。その年にギャラリーQで初個展、以後ベルギーや東京の西瓜糖、藍画廊、Porte de Paris、ギャラリー椿などで個展を行っている。ギャラリー椿では2年ぶりの個展になる。

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 夏目は女性像を描くが顔も輪郭もあいまいだ。表情もよくは分からない。ポーズも座っていたりして動きはあまりない。今回は風景画も並んでいる。
いずれにしろ夏目の特徴はそのマチエールの美しさだ。色彩も麻麦カラーともいうべき独特の魅力がある。いずれも写真やモニターでは分かりにくい。ぜひ実物に触れるべきだ。
 夏目は正統的油彩画家と言えるだろう。現在最も優れた中堅画家のひとりだ。
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夏目麻麦展「-scape」
2019年11月2日(土)-11月16日(土)
11:00-18:30(日・祝 休廊)
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ギャラリー椿
東京都中央区京橋3-3-10 第一下村ビル1F
電話03-3281-7808
http://www.gallery-tsubaki.net

 

中村稔『むすび・言葉について 30章』を読む

 中村稔『むすび・言葉について 30章』(制度社)を読む。言葉をテーマにした詩(14行詩)が30篇収録されている。言葉をテーマと書いたが、言葉の本質、機能、生態などの省察を14行詩の形式で表現した詩集『言葉について』20章、『新輯・言葉について 50章』の続編として書かれた。合わせてちょうど100篇になるが、私は『言葉について』のみ読んでいる。本書から「13」番目を紹介する。


利休鼠は猫の狙う鼠の一種ではない。
利休鼠は色の名だ。抹茶の緑を含む灰色のことだ。
城ヶ島の磯に、利休鼠の雨がふる、
そううたわれた雨の色が利休鼠だ。


利休鼠は黒の系統、黒は濃い墨色だ。
鉄色ともいわれる鈍(にび)色もこの系統の色だ。
鈍色が青みをおびれば青鈍、緑をおびれば利休鼠。
淡墨色の灰色でこの系統の色は終る。


私たちの祖先は何とさまざまな色を作り出したことか。
また、それらの色に、何と優雅な言葉で名づけたことか。
だが、雨に色があるか。誰が利休鼠の雨を見たか。


たしかに作者は城ヶ島の磯に利休鼠の雨を見たのだ。
当時、彼の生活は危機にあった。彼の心はすさんでいた。
そのすさんだ心が緑がかった灰色の暗い雨がふるのを見たのだ。


 全編こんな感じの淡々とした作品だ。特に象徴的でも哲学的でもないし、警句風でもない。そこがちょっと物足りない。14行詩はフランスのソネットの形式を取り入れたものだが、ソネットにある押韻がない。日本では立原道造や戦中~戦後のマチネ・ポエティクの連中が採用していた。
 言葉についての詩といえば、川崎洋の「鉛の塀」と田村隆一の「帰途」を思い出す。
 川崎洋の「鉛の塀」

言葉は
言葉にうまれてこなければよかった

言葉で思っている
そそり立つ鉛の塀に生まれたかった
と思っている
そして
そのあとで
言葉でない溜息を一つする

 田村隆一の「帰途」


言葉なんかおぼえるんじゃなかった
言葉のない世界
意味が意味にならない世界に生きてたら
どんなによかったか

 

あなたが美しい言葉に復讐されても
そいつは ぼくとは無関係だ
きみが静かな意味に血を流したところで
そいつも無関係だ

 

あなたのやさしい眼のなかにある涙
きみの沈黙の舌からおちてくる痛苦
ぼくたちの世界にもし言葉がなかったら
ぼくはただそれを眺めて立ち去るだろう

 

あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか
きみの一滴の血に この世界の夕暮れの
ふるえるような夕焼けのひびきがあるか

 

言葉なんかおぼえるんじゃなかった
日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで
ぼくはあなたの涙のなかに立ちどまる
ぼくはきみの血のなかにたったひとりで掃ってくる

 

 

 

むすび・言葉について 30章

むすび・言葉について 30章

 

 

林達夫・久野収『思想のドラマトゥルギー』を読む

 林達夫久野収『思想のドラマトゥルギー』(平凡社)を読む。二人の対談集だが、久野が聞き手となっている。略歴には林が西洋精神史研究家、久野が哲学者となっている。
 1974年の発行直後に買って読み、その20年後に読み直し、今回が3回目となる。林の西洋思想や文学、演劇に関する該博な知識にはただ圧倒される。それを久野がちょっとばかしヨイショしながら聞き出している。ギリシアから現代にいたるまで話題は幅広く深い。もう50年も前の対談だから、ある種古びている部分は仕方ないが。
 ルカーチについての話題。

久野収  それともう一つ、(ハナ・)アレントで僕が快哉を叫んだのは、ブレヒトが、ジョルジュ・ルカーチとアルフレート・クレラをボロクソに言い、あんな連中の理論に近づいたら作品が書けなくなるといったらしいことです。これは僕の昔からの意見なんですが、ルカーチの『歴史と階級意識』とそれ以前は買います。しかし、それ以後の一切のものは、党直系の文化指導者意識が先に出ていて駄目だと思います。ハンガリー事件以後の最晩年のものは未だ読んでいないから知りませんが……。(中略)
林達夫  (……)ルカーチ弁証法を見ていると、開かれていない。円環になってただ閉じた世界でグルグル廻っているだけで、爽快なスウィング感も絶妙な伴奏リズムの複雑な味もない。少しも輪が大きくならない……。ワルツでも三流オペレッタのワルツだろう。
久野  アンビギュイテというものがないんですよ。
林  それだ。つまり、それは情報理論で言う、大事なredundance(余剰)の不足でもあるね。
(中略)
林  ルカーチが、公然たるマルクス主義者になる以前、まだディルタイなんかの影響をたっぷり受けていた頃のもので『小説の理論』というのがありますね。その仏訳の序文を、死んだルシアン・ゴールドマンが書いているんですが、もっともよきルカーチ、『魂の形式』とこの『小説の理論』にしか触れず、あとは黙殺なんです。ゴールドマンというのは、その点、心憎き奴です。

 『小説の理論』はちくま学芸文庫から出ている。リュシアン・ゴルドマンは『人間の科学とマルクス主義』が紀伊國屋書店から出ている。いつか読んでみよう。

 

 

 

思想のドラマトゥルギー (平凡社ライブラリー)

思想のドラマトゥルギー (平凡社ライブラリー)

 

 

小説の理論 (ちくま学芸文庫)

小説の理論 (ちくま学芸文庫)