スタニスワフ・レム『ソラリス』を読む

 スタニスワフ・レムソラリス』(ハヤカワ文庫)を読む。沼野充義による新訳だ。旧訳もハヤカワ文庫だったが、飯田規和はロシア語からの重訳だった。『ソラリスの陽のもとに』という題名で1965年に訳出された。私も1970年代に読み、強烈な印象を与えられた。その後タルコフスキー監督の映画を劇場で見て、テレビの放映でも見ている。しばらく前にハリウッドでも映画化されたと聞いたが、恋愛をメインにしていると聞いて見る気がしなかった。
 40年ぶり以上に読み直して、なるほど恋愛の要素も大きいことを知った。『ソラリス』は宇宙人とのファーストコンタクトというテーマの外に、恋愛も重要な要素を占め、またソラリス学について論じるなど、のちの架空の本の書評集(『完全な真空』)や、架空の本の序文集(『虚数』)などに通じる架空の学説についてのペダンチックな論説が並べられている。
 しかし、何といっても昔も読んで強烈な印象を受けたのは、地球外知性とのファーストコンタクトの部分だった。レムが書いた解説が収録されている。そこに次のように書かれている。

宇宙は、私たちがいまだ知らない新奇な性質を備えているのではないだろうか。地球人と地球外生物との間に相互理解が成り立つと考えるのは、似ているところがあると想定しているからだが、もし似たところがなかったらどうなるだろうか?

 ソラリスステーションの図書館にあるソラリス学文献の中に、グラッテンシュトロームの書いたちっぽけな小冊子があった。グラッテンシュトロームがたどりついた最終結論が紹介されている。

人間の形を取らない、非ヒューマノイド型文明と人間が「コンタクト」に成功するなどということはあり得ないし、今後も絶対にありえないだろう、というものだった。

 レムは『ソラリス』以外でも人間と地球外知性とのコンタクトの失敗を書き続けていく。昔読んで以来、私の中にレムのこの思想が焼き付いていて、人間がどんなにあがいても宇宙の中で矮小な存在であることは自明の基本の前提なのだと染みこんでいる。
 レムの偉大さはほとんど哲学者のそれだと思っている。

 

 

 

岡田暁生『音楽と出会う』を読む

 岡田暁生『音楽と出会う』(世界思想社)を読む。第1章「音楽は所有できるのか?」を読み始めて、この読書は失敗だったと思ったが、章の終りに「My songがOur songになるとき」という小見出しがあって、伝説的な《ケルン・コンサート》のレコードの大ヒットの後来日して武道館で開いたキース・ジャレットのソロ・コンサートのライブ録音がすばらしいと書く。それはレコード化はされなかったが、FM放送を録音したものがネットで聴ける。「Kieth Budokan」で検索すればYou Tubeで聴くことができるから絶対聴いてほしいと書いている。
 現在はカリスマ音楽家空位時代だと書いて、21世紀のカリスマ指揮者はテオドール・クルレンツィスではないかという。そのモーツァルトの歌劇を振った動画がやはりネットで見られるというし、さらに、

……またパトリツィア・コパチンスカヤを独奏者に迎えたチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲の録音は、ここ数十年で最も話題になったクラシックCDだと言って過言ではない。従来のどんな演奏とも完全に断絶していて、しかしまさにこれこそが作品の真の姿だったのだと聴き手に感得させる憑依の力がある。音楽原理宗教恐るべし。

 つぎにカルロス・クライバーが1974年のバイロイト音楽祭で《トリスタンとイゾルデ》を指揮する姿を、オーケストラ・ピットから固定のモニターテレビで撮った映像がネットで見られるという。オペラ上演では演出関係者や合唱指揮などのために常時指揮者の姿を簡易モニターで舞台裏に中継している。それがネットに流れたのだろう、と。

 これはとんでもない映像である。神がこの世に降臨した瞬間の記録だと言っても誇張にはなるまい。モニターテレビだから白黒の画面は当然ぼやけていて、顔の細部はほとんど判別できない。だが、まるでこの世ならぬものが降臨したようなその立ち姿は、誰がどう見ても「彼」のものだ。指揮棒を持ってあんなふうに立てる人間は、この世にただ一人しかいなかった。

 この映像も「kleiber tristan」で検索すればすぐ見つかるという。またチェリビダッケチャウシェスク政権時代のブカレストでエネスク《ルーマニア狂詩曲》を指揮したときの白黒テレビ番組もおすすめであると言う。
 その他「音楽=癒し」を強く否定して、癒しの音楽の対極としてモーツァルトのピアノ協奏曲第25番の第1楽章冒頭を挙げている。またAIに苦手なものは「身体性」であると。身体は音楽における人間性の最後の牙城の一つなのだ。生身の人間の息づかいや節回し、テンポのたわみや臨機応変のタイミングといった、「そこに確かに生きた人間がいる」と感じさせてくれるもの――これをシミュレーションすることは、AI君には当座ほぼ不可能であろう、と。
 いや、岡田暁生の本に外れはない。

 

 

音楽と出会うー21世紀的つきあい方 (教養みらい選書)

音楽と出会うー21世紀的つきあい方 (教養みらい選書)

 

 

堀啓子『日本近代文学入門』を読む

 堀啓子『日本近代文学入門』(中公新書)を読む。副題が「12人の文豪と名作の真実」とある。「真実」というのはちょっとオーバーだが、内容は面白かった。6つの章でテーマを立て、2人の作家を比較していてそれが成功している。
 近代小説が落語家の三遊亭円朝の語りとそれを取り入れた二葉亭四迷の文体から生まれたこと。女性作家の嚆矢として樋口一葉とその先輩の田辺花圃がいたこと。一葉はそこそこきれいな肖像写真が残されていて5,000円札にもなっているが、職業写真屋がめちゃくちゃ修正していて、特別の不美人ではないが地味な女性だったらしい。この点は30歳で没したのに少年のような肖像写真が残っている中原中也と一緒だろう。中也も写真屋が皺などを徹底的に修正した結果だと聞いた。
 洋の東西の種本を翻案して成功した作家として、尾崎紅葉泉鏡花が取り上げられている。また漱石新聞小説で成功し、黒岩涙香は新聞の売り上げ増加を計って成功した。涙香は英語の小説3千冊の読書体験から大衆小説を手掛け、『巌窟王』や『ああ無情』などで成功を収めた。
 自然主義田山花袋に対して堀は反自然主義森鴎外を挙げる。対極的に見えるが二人はお互いを尊敬しあっていてお互いに影響を受け合っているという。菊池寛芥川龍之介と比べられる。作風は正反対だったが、学生時代から強い友情に結ばれ、のちに菊池は芥川賞直木賞を創設する。直木賞より菊池賞として方が適切だったろう。
 タイトルが硬くて読みにくいと思われるのではないか。なかなか楽しい読書だったが。

 

 

 

 

練馬区立美術館の坂本繁二郎展を見る

f:id:mmpolo:20190905214525j:plain

 東京練馬区練馬区立美術館で坂本繁二郎展が開かれている(9月16日まで)。「没後50年」とある。青木繁と久留米で同級生だったが、青木が若くして亡くなった後、58年も長生きして、文化勲章も受賞した。
 坂本については、梅野満雄が書いた青木繁の伝記が強く印象に残っている。梅野は青木と坂本の同級生だった。青木を天才と称えて、坂本については評価が低かった。私は竹橋の東京国立近代美術館の常設に掛かっている「水より上る馬」以外の作品はあまり記憶になかったが、どうしても坂本の作品が好きになれなかった。しかし私の身近な画家たちはみな坂本を絶賛しているし、わが敬愛する野見山暁治も高く評価している。

 坂本繁二郎は、ぼくが美術学校に行ってるころ既に、梅原龍三郎安井曾太郎と並ぶ洋画の巨匠という扱いを受けていた。
 ぼくを励ましてくれた今西中通も、「坂本さんのそばにいたい」というのが福岡に移ってきた理由の一つだった。
 坂本さんの滞欧作品は、日本人が描いた油彩画の最高のものだと、ぼくは惚れ込んでいる。後年の能面や研ぎ石の絵は気質的に合わんのか、ぼくには何も訴えてくるものがない。さすがの巨匠も年を取ったものだと、いささか寂しい気持ちにさせられた。しかし、それから数年を経て、西洋の造形的な空間に東洋の幽玄な世界が混沌と溶け込んで、晩年に描かれた牛や月夜の作品には息をのむ。(北里晋著『眼の人 野見山暁治が語る』(弦書房)より)

 

 昼前の飛行機に乗って、早めに久留米の美術館に着く。坂本繁二郎展。
 この画家は、日本人には希薄な立体の意識を、どこから学んだのか。経歴を読んでも、それらしい環境はない。パリで学んだと思っていたが、すでに渡航まえ、牛のモチーフの連作が見事にそれを見せている。(野見山暁治『続アトリエ日記』(清流出版)より)

 坂本をまとめてみる機会があれば私にも坂本の良さが分かるかもしれないと期待していったが、印象は変わらなかった。
     ・
坂本繁二郎
2019年7月14日(日)-9月16日(月)
10:00-18:00(月曜休館)
     ・
練馬区立美術館
東京都練馬区貫井1-36-16
電話03-3577-1821
https://www.neribun.or.jp/museum/
西武池袋線中村橋駅下車徒歩3分

 

巷房の作間敏宏展「colony」を見る

f:id:mmpolo:20190904133816j:plain

f:id:mmpolo:20190904134014j:plain


 東京銀座の巷房で作間敏宏展「colony」が開かれている(9月14日まで)。3階の巷房1では名前がたくさん書かれた平面作品が、また壁に並べられたタブレットには人の名前が列挙されて下からスクロールし、鮮明な画像やぼやけた画像が映っている。
 また地下の巷房2では映像作品が上映されている。最初に掲げたDM葉書がその映像だが、これには2種類あって、男バージョンと女バージョンがある。いずれも100人の男あるいは女を動画撮影し、それをひとつの映像作品に重ね合わせたものだ。皆何かつぶやいているが、その音声も重ね合わされている。すると、DM葉書にあるような誰とも分からないがどこか見知ったような顔になる。
 地下の巷房階段下には大きなパネルに名前が映し出されている。

f:id:mmpolo:20190904134040j:plain

f:id:mmpolo:20190904134057j:plain

f:id:mmpolo:20190904134118j:plain

f:id:mmpolo:20190904134145j:plain

f:id:mmpolo:20190904134206j:plain

f:id:mmpolo:20190904134222j:plain

f:id:mmpolo:20190904134235j:plain


 展覧会タイトルのcolonyは集団としての人々を表しているのだろうか。人は社会という集団colonyの中に生まれて生きている。それを離れて生きていくことはできない。人の環境世界はまず社会なのだ。作間の展示はいつもそのような根源的な事実を提示してくれる。日常生活の中に埋もれて気づかないで暮らしているわれわれの「生」の底にある構造を写し出して見せてくれる。作間のインスタレーションはある種の還元作用なのではないだろうか。
     ・
作間敏宏展「colony」
2019年9月2日(月)-9月14日(土)
12:00-19:00(最終日17:00まで)日曜休廊
     ・
巷房(3階+地下1階+階段下)
東京都中央区銀座1-9-8 奥野ビル3FとB1F
電話03-3567-8727
http://gallerykobo.web.fc2.com/